忍びがたきを忍び耐え難きを耐え-2年生編-

月も11月に変わり社会人になるまでのカウントダウンがされていることに必要のない焦燥感を覚えています。卒論がしんどいalpconです。

前回の続きで僕の高校生活について話をしようと思います。

続きもので前置きを長くするのは僕の意に中るところでは無いのですが、僕は高校生活の不幸自慢がしたい訳ではありません。僕/私の方が辛かったとか、このような経験をした僕の気持ちなんて分かるまいなんて主張をするために長々と文を書いている訳ではありません。ただ、こう時間がある時に(卒論をやれ)じっくりと自分自身の経験についてを振り返り考えてみたいだけなのです。人生のモラトリアム期間にやるにはうってつけでしょう。聞かれてもいないことに答えた所で高校二年生の僕について振り返りたいと思います。色々なことがあったため非常に長くなっていますので暇な時にどうぞ。

 

サバイバル・留学生活

 

  • 縛りプレイ

高校二年生(厳密には高校1年生の1月末から)にして僕は監獄の高校から抜け出し飛行機に乗せられ南半球まで飛びました。留学を志す人間とは対極の人間性を有した僕でもいざ海外に行くとなると楽しくはなるもので、最初のひと月辺りはウキウキで毎日を過ごしていたような記憶があります。留学を始めて間もない頃は英単語を絞り出すのに必死だったのが、まあ慣れというものは生まれるらしく徐々に会話もできるようになっていきました。留学の主目的とそれに関する僕の話なんてのは特に特徴的な部分はなかったように思います。

サバイバルと銘打ちましたが、僕の高校が用意した留学生活は縛りプレイです。「電子機器持ち込み禁止」「親とのやり取りは手紙以外禁止」「SNS使用禁止」「上記発覚時は強制帰国」大まかに言えばここら辺でしょうか。例外的に許されていた電子辞書と読書機能以外付いていない(重いブラウザはついていたが)Kindleだけで1年弱を過ごさなくてはいけませんでした。事前に口酸っぱく言われていましたが実際に生活をすると非常に厳しいものがあります。現地の学校での遊びの約束やら待ち合わせ時の連絡は支給されたちゃっちい携帯電話(ガラケーです)でしかできません。Snapchatやらカカオトーク(後者はアジア人系の留学生がよく使っていた)全盛の現地でその縛りを持った人間が入るのはなかなかに難しいものがありました。授業とかで一緒になって話す分にはいいのですがそれ以降の予定なんてのはたまに作るくらいのもので他の大半は1人でチャリンコで走ったり(チャリパクをされて警察に駆け込むも警察が営業時間終了していた事件なんてのもあったな)するくらいしかなく極端に日常の娯楽が少なかったのです。僕に与えられたのは広大が過ぎる自然と長すぎる時間のみです。「暇だな〜考え事をするか」なんてリアルでやることがあるとは思いませんでした。母国語話者が周りにほとんど居ないため人との意思疎通が完全でもなく、また高校1年生の状態を引きずって留学に来た僕に考え事をさせるとどうなるのかは想像にかたくないと思います。多分僕の人間性がねじ曲がりきるには十分すぎる機会だったのだと思います。あれやこれや考えました。日本にいた頃の色々な嫌な思い出やらなにやらを16か17の人間が一人で考え込むとそりゃ変な価値観になる。価値観形成に重要な時期に周りと適切なコミュニケーションが取れないことの弊害がモロに価値観に出たのが僕なのかなと勝手に考えています。

 

  • 実生活

ちなみにホストマザーと死ぬほど仲が悪かったです。帰国時空港に送って貰う時に基本みんな涙ぐみながらハグしてるみたいな光景が散見されましたが涙の一滴もなく握手だけで別れました。多分俺がインドア派なのが気に食わなかったのと死ぬほど片付けをしない人間だったのが癪だったんだと思います。

留学生活前半は多少ルールも守って生活してましたが、最終的に僕はKindle2ちゃんねるを見てホストファミリーが寝静まったらパソコンをいじり学校のパソコンの授業でも日本のサイトを見たりと割とやりたい放題やってました。やりたい放題やっても許される環境であったというのも一因だと思います。留学生は基本的にテストとかを要求されなかったし、色んなことを見て欲しいくらいのスタンスだったというのもあります。

ホストファミリーには別荘があり、その別荘にあるボートで海釣りをしてサメを釣ったりしました。あとそこにブタがいて可愛くてしょうがなかったのでめちゃくちゃダル絡みをしていたら2匹いた片方が病気で射殺されたのをあとから聞かされて悲しかったです。

その別荘でトラックの荷台に乗ってたら振り落とされて骨折しました。海外で始めて人生で1番大きなケガをやるとは思いませんでした。

正直実生活部分に関しては結構楽しくやってました。拙いながらにコミュニケーションを取り色んなことをさせてもらったような気はしてます。人生で始めて酒を飲んだのもホストファミリーの別荘だっけかな。

学校も授業で喋り相手には困らなかったしキャンプで無人島に宿泊して凍えた翌日アスレチックをやるとか色んなことしました。アウトドアアクティビティで社会性を学ぼう的なスタンスでキャンプイベントをやってるらしいです。

昼飯の時間はタイ人のオタクにスマホで神風特攻隊の動画を見せられて「Oh〜his sacrifice!!!」と熱弁されていました。日本の文化に興味があるというか普通にオタクコンテンツのタイ語版を履修してるやつだったので打ち解けるのに苦はなく、めちゃくちゃ仲良くしてました。海外の人でオタクコンテンツに興味があるなんて正直愛国心がバグったオタクの妄想だと思っていましたが、そいつはテンプレみたいに日本のオタクコンテンツに興味を示していて逆に面白かったです。そいつが旅行で日本に来た時秋葉原のプラモデルショップを案内したら大喜びしてました。

ホストブラザーが自宅でホームパーティーをたまに開いたりしてたのでホストブラザー(2個上)周りの人ともちょくちょく顔を合わせたりしてました。思えば色んな人と会ったような気がします。

全ての物が日本と切り離されていたからこそ日本にいる時のような陰鬱な感じもなく楽しめたのかもしれません。

 

現地校留学生としての生活終盤の記憶

 

  • 学校と学校

数日間ホストファミリーが旅行に行き僕を連れて行けないということで現地校の留学生担当の教員の家で2日か3日くらい過ごした時がありました。パソコン付きの部屋を用意され浮かれながら夕飯を食べている時にその先生にすごく真剣に僕の高校の話をされました(留学生なので基本聞く側)。あなたの高校の親と子を引き離すポリシーは間違えていると思う。親も子も可哀想だ。来年以降はあなたの高校からうちの高校への留学は受け入れないけれどあなたのせいではないよ。みたいな話だったような気がします。死ぬほど救いになりましたね。学校のスタンスに対して「ここがこう間違っていてこうなっている」と考えさせてくれるきっかけをその先生に与えられたと考えています。これ以降の高校生活で自分の高校のここが間違っていると気づかずに盲目的に自分の高校の教育を受けていたら今頃僕はどうなっていたことか分かりません。また、僕は2つの高校を体験した稀な例であるということを念頭に置いたうえでその比較から考えることを教えてくれたとも思っています。こればかりは感謝をしているつもりです。

 

  • 日本人留学生

周りには1桁人日本人がいました。うち男子は2人(僕を除いて)だけでしたが、ここであることに気づかされました。ここにいる日本人全員人付き合いの感じが変だと。日本人の人たちと話していくうちにわかったのが、彼らは日本にいる時に不登校とかなんかしらのトラブルになった人が多いということです。帰国後に分かったのですが、海外に2年以上いると言語習得状況の如何に関わらず帰国子女枠で入試を受けることができるようになるそうです。こう言いきってしまうのは非常に偉そうで自分でも嫌なのですが、「そんな留学の使い方もされているのか」と当時感心してました。その片割れの男子(5コ下の歳だったかな)とは少し仲良くしてました。癖の塊のようなやつで(前の学校でなんかやらかして転校させられたとか)退屈しなかったです。そんな彼に言われた一言が今も僕に突き刺さっています。「お前人の事情に突っ込まないのいいよな」というニュアンスの言葉です。この言葉は当時自分にとっては人生で受け取った数少ない褒め言葉かつコミュニケーションの取り方の評価として受け取っていました。しかし、この言葉は大学四年生になった今の僕には刃物のように突き刺さっています。この言葉は裏を返せば「他人に関心がない」とも捉えられるのです。考え込まざるをえませんよね。こういう言葉。こんな重い一撃も食らったりしてました。

 

  • さらば海外のド田舎

タイ人のオタクやホストブラザー(ドラッグやってた)、元英国海軍のホストファミリーのおじさんとかとメインで仲良くしてた現地校留学生活も終え僕はその後の留学生活に向かいました。僕の中でここまでの留学生活は色んな経験と体験をさせてくれたものとして鮮やかに彩られています。縛りプレイなりに楽しんだつもりです。

 

地獄の始まり

 

  • 最終処分場

留学生活を経て物事を(良くも悪くも)考え込む人間となった僕は南半球の辺境での生活を終え留学生活最後のひと月は高校の同級生たちと合流し数週間見学系の研修をしたあとフィリピンで語学研修を受ける運びになっていました。

同じように現地校で留学生活をしていた同級生たちがどのような人間になったのかなと期待した僕はあまりにも現実に期待をしすぎていました。男も女も海外にかぶれ日常生活でも日本語に英語の習いたてのスラングを混ぜる滑稽な姿に当時の僕はめまいがしていました。もっとこう、考えることとかなかったのか?人としての成長とかないのか?と疑問を覚えたりもしましたが僕は大きな間違いに気づきます。そもそも僕のように面倒くさい考え事をするようなタイプは留学には行かないということに。海外に行って海外の価値観をインストールしてその価値観をブンブンに振りまく同級生が普通であり、今まで感じたことと海外で感じたことを闇鍋の如く混ぜたダークマターのような思考回路をしている僕が異常なのです。こうして出国前よりも数段頭が悪くなった(お勉強の話ではなく人として)ように見える同級生たちと研修を受けることになったのです。

前の記事で書いた通り僕には数名のよく絡むやつが高校の同級生でいました。そいつらと過ごせばいいじゃないかと思っていましたが悪いことは重なります。管理的なアレで学年をクラス関係なしに真っ二つに分けられた時に僕一人だけと他のやつらみたいな感じになったのです。この時点で現地校生活9ヶ月の間に休まされたはずの僕のメンタルは粉砕されました。僕がいたグループにいた(女子は絡まないのではなからカウントしていません)のは八割のウェイ系の男子だけでなく、男女問わず嫌われていた数名のやつがいました。僕の高校の同級生のウェイは当時非常に排他的だったので嫌われてたやつは八割のウェイ以外の人と絡むようになります。対象として残されていたのは俺だけだったのです。話せばそいつの嫌われる理由なんてのは分かるし、嫌なところがダイレクトに僕に襲いかかってきます。毎日本当にストレスが溜まりました。「これじゃ俺はまるで最終処分場だ」なんて思っていました。しかし、高校入学後理由もなく拒絶されたことのある人間が自分に好意的な人間を拒絶する勇気なんて生まれるわけもありません。そいつからのダイレクトなストレスと自分自身の葛藤のストレスでその時期はブルーになっていました。もう1人好意的に僕に絡んできた嫌われ者は前者とは違い女の子に告白してフラれてそこから男女共々から陰口を叩かれるようになったみたいな嫌われ方でした。そいつとひたすら傷を舐めあっていたのを覚えています。余談ですがそいつに淫夢ネタを教えたらホモガキになって高校3年で悲惨な感じになってました。

 

  • "異常"

既に地獄のような生活に変化してからしばらく後、フィリピンの語学研修施設でひたすら資格試験の勉強をする研修生活をひと月過ごすことになりました。上記のグループ分けは変わらなかったものの、施設の近くのホテルではほかの部屋に行ったりして別グループのやつと交流が取れるようになりました。

しかし、本当の苦しみはここからでした。

毎日ひたすら勉強して朝は早く起き遅刻したら衆目に晒されながらの部屋連帯責任制の怒られが発生するなど基本的な生活がまずシビアでした。そこは僕の高校がなんとなく軍隊的な厳しさの体育会系を目指していたところから察しはついていました。

与えられた条件を振り返ってみましょう。僕らの生活は研修施設とホテルの往復のみです。また、研修の授業時間以外は自習時間になっています。そして集められた同級生たちは数段頭が悪くなっています。何が起こるのか答えはひとつ、色恋沙汰です。

自習時間に大きめのテーブルでは男女入り交じり会話したりするくらいなら別に僕も気に留めはしませんし口を出すことも無いでしょう。明らかに雰囲気が異常でした。サカリがついた猿と言いましょうか。ひと月の研修の間で10近くカップルが誕生し別れみたいな状況が生まれていました。研修施設のマンツーマン用の部屋で男女が2人で入っていたりもしてたな。挙句の果てにはホテルの同室の同級生が俺らの部屋に女の子を入れてベッドで一緒に座って話したりしてました。上記の後者の嫌われてたやつと同室だった俺は2人で研修施設でもホテルでも傷を舐めあっていたように思います。その嫌われてたやつが上記の連れ込まれた女の子が連れ込んだ男とトイレでチョメチョメしてるのを見かけたみたいな話も聞きましたね。学年全体が性欲の猿みたいになってしまった状態、怖くないですか?思春期が甘酸っぱいみたいな話をされるとこの時期のことを思い出してしまってゲンナリすることもたまにあります。そういったものへの憧れとかコンプレックスとかの感情は生まれず、密閉され男女が同じ屋根の下にいると人はこうなるのかという現実を目の当たりにした恐怖のような感情に支配されていました。

ブレイクしたメンタルと異常になった同級生への恐怖と共に研修生活を送っていたら、ある日俺が仲が良かった同級生たちのうち2人が自習時間に女子とそこそこ狭い部屋で密着して勉強していました。当時信頼していた同級生たちが"異常になった雰囲気に巻き込まれた"ように感じてめちゃくちゃショックを受けたのを覚えています。研修のストレスと異常な雰囲気の同級生たちへの恐怖、蝕まれた仲のいい同級生たちの姿で僕は完膚なきまでにぶっ壊れました。僕もおかしくなったのでしょう。研修施設の人がいない廊下で声を上げて号泣しました。酒に酔って泣いたのをカウントしなければ俺が悲しくて泣いたのは多分この時が最後だと思います。心配して来た上記の仲が良かった同級生たちに「行かないでくれ…」と言ったのだけ覚えています。書いてて笑っちゃうくらいメンタルブレイクしていたんだろう。ぶっ壊れた俺を見て目を覚ましたのかその後は女子とも普通の絡み方をしていたように思います。

当時の僕にその同級生とも縁を切ることになると伝えたらどうなっていたか悪戯心で知りたくなりますね。

 

地獄そのものの研修を終えた僕は日本に帰ってきました。僕が留学してる間に僕の家族が1人増えていました。犬です。長男が留学してる間に犬を飼う家があるかいとツッコミを入れましたが今や僕は犬にゾッコンです。また僕が日本にいない時に消費税が増税されていて、自販機の価格が変わってたことに驚いてました。1年弱国を離れると色々なことが起こっているねということをよく色々な人に話をしてました。

 

3年生編であまり書くことがない(むしろ2年生編が多すぎた)ので2年生の帰国後の話は次の記事でしようと思います。もう五、六年前の話なので記憶違いとかもあるかもしれないですが留学生活のビビッドな話だけを書きなぐりました。真偽を確かめる相手もいないし問われもしないだろうけど昔の記憶がアテになるのか不安になりつつ筆を置きます