運送会社黙示録

長らく更新をしていませんでしたが皆様いかがお過ごしでしょうか。

alpconです。

気付けば20代も折り返しどうしようもないフェーズに突入しつつあります。

思いの丈を話すことすら後悔が生まれ、口を開く事への抵抗が日々大きくなる日々を惰性走行で過ごしています。

 

何故3年振り?に筆を執ったのか?と言うと単純で、丁度転職をしてから1年程経ったからだ。1年前まで、私はよく分からない会社で働いていました。平たく言えば運送会社です。何故そんな見え見えの地雷原に足を踏み入れたの?と言われたら何も言えないが、所謂インフラ的な業界だからなくなることは無いだろうという安直な安心感と、単純にこの会社からしか内定が出なかったというのがある。自分を売り込む就職活動という絶望的に適性がない行為に精神的に疲弊しきっていた人の末路である。本気で自分にいい所は無いと思っているし、嘘をつけるほど機転も効かない私からしたら採られるだけでも儲けものくらいの思考回路だった。

 

前段が長過ぎたが、今回は私が某運送会社に丸2年勤めていた時の思い出を備忘録として綴ろうと思う。前の会社では〇〇だった、とか前は〇〇出来なかった、等の言葉がことある事に自分の口から出てくるが、私はもうあの会社の人間でも無いしいつまでも引きずっているのも女々しいので、思い出せる事をここに記し「前どうだったの?」の問いに対してこの記録を差し出し余計に過去を振り返らないようにしたいと思う。ただでさえ常日頃寝付けずに過去に苦しめられ続けているような人間なので。ただただ負担だっただけなので、普段のように自分の内面にそこまでフォーカスが当てきれていないところが多いが、よしなに。

 

入社〜GW

 

僕の入社した会社は、1年目は全員社員独身寮に入り主管の支店で様々な担当をローテーションさせその後本配属で各支店に飛ばすという流れを取っていた。主管の支店も東京名古屋大阪等あちらの裁量(と言っても大した理由は無いのだろうが)でどこかに飛ばされ、その後各支店に飛ばされ…といった感じでどこになるのか分かったものではなかった。神奈川出身の私は運良く東京主管支店に1年目行くことになり、東京都内の独身寮で生活をすることになった。初のひとり暮らしという事で初日だけ浮かれていた。

我々が入社した年は例の流行病全盛期の年で、寮で人と会うなという事を口酸っぱく言われ配信形式の入社式を見させられたように記憶している。今でこそ普通だが当時は違和感が満載だった。

 

入社してから1ヶ月程座学の研修になるのだが、もうこの時点で様々な"危険"ポイントが出現する。

まず、社訓テストなるものが毎日最後に行われる。新入社員の誰も真面目にやってなかったし、人事もやれと言われたからやった感を出しながらプリントを配布してきた。聞けば昔から新入社員研修の伝統らしく、例の流行病が無ければホテルの部屋で絶叫音読させられてたとか。恐ろしい。なんの意味も成していない紙を同期数名と白紙で提出して帰っていた。

次点で気になったのが、勤怠管理が紙記録だった事だ。まず研修の段階で定時終了にならないことが多く、その正確な時間を書かされる。後からこの会社にも勤怠システムがあったことを確認してるので、アレに関しては本当にムダだった。何のためにあちらでコントロール出来る研修時間の終了時間を記録し提出した?新入社員全員変わらんのに。ちなみにこの会社は定時(18:00)を超えると自動で30分休憩扱いにされ、その後からじゃないと残業時間がつかない仕組みだが、研修時その説明は無かった。

ひと月ほど座学の研修をさせられ、その後GW明けくらいから現場での研修をすることになっていた。ここまでは序章で、ここから私は現場での肉体労働と周囲の人員による狂いが襲いかかってくることになるとは知らずに、研修部屋から外へ出ることが出来る喜びに浸りながら2tトラックの助手席に乗り支店を飛び出すのであった。

 

現場狂い編

 

職種としては総合職採用だったので事務系になるが、現場での研修ということで私はここから約半年間文字通り汗水垂らしながら働くことになった。

ここで僕が入社した会社の仕組みについて軽く説明しておこうと思う。冒頭で説明しろよと言われればそれまでだが。

僕が入社した会社をカテゴライズするなら「路線屋」と言われるジャンルの会社である。とは言え同業界の人以外にとってはなんのこっちゃという感じなので以下に説明をする。

物流という業界は主に「運ぶ」会社と「保管する」会社に大別される(通関系の人ごめん)。前者は船会社であったり鉄道会社(1社しか知らんが)だったりするが、私がいたのはトラックを使う運送会社だった。ちなみに貨物輸送全体の中での割合としては半分くらいがトラックで運ばれているらしい。

運送会社の中でもジャンルが分かれていて、積み地と降し地を指定されてその分だけ運行をするチャーター便を手配する運送会社もあれば、自社でネットワークを持ち拠点間を大型トラック等で混載で運び、拠点から各配送先までを2t車やら4t車やらでグルグル回って配達をする会社もある。後者を路線屋と呼ぶ。ここまでの説明だとなかなかイメージがつかないだろうが、某黒猫の会社や飛脚の会社をイメージしてもらうと分かりやすい。挙げた2社はtoCを扱っているため「宅配便」と呼ばれることが多いが、toCメインでない場合路線屋と呼ばれるイメージだ。

そんな路線屋はどんな荷物を扱っているのかというと、まあなんでも運ぶ。入社当時はマスクやアルコール消毒液をやたらと運んだ記憶がある。マスクはいいが消毒液は液体なので重かった。手で持てる範疇の荷物は大体何でも運んだ。パレット物(フォークリフトで持ち上げるために穴が開いているすのこみたいなやつです)になるともう何だかよく分からない機械やら部品やら何でもあった。宅配便と違い路線屋のメリットはサイズが大きくても対応ができる(させられる)点なので、ゲテモノが多い。某黒猫の会社とか飛脚の会社とかを使ったことがある人は分かると思うが、120サイズ超えたら受けませんみたいなのあったでしょう。あのリミットが無いのです。なのでやたらデカい段ボールにギチギチに物詰めて発送する客が多い。しんどかったわ

 

さて、話を戻すと僕はそんな会社のことを右も左もわからぬうちに現場で配達をやることになった。最初に配達をやったエリアは台東区の閑静な中小企業ばかりある町で、一緒にペアになった同期とほんわか配達をこなしていた。幸い地図を読むこととそれを身体にインプットすることは苦手ではなかったので、任されたエリアは番地を言われたら行けるレベルまでは詳しくなった(というか、ならざるを得なかった)。

配達をする、と言っても全面的に新入社員に任せる訳ではなく、ちっちゃい営業所があったのでそこまで拠点から荷物を横持ちし、そこから台車なり自転車なりで配達をしていた。その営業所まで持ってくるドライバーが責任者的立ち位置になっていたので、ドライバー1人と台車引きのおっちゃんと新入社員2人の4人で2か月くらい伸び伸びと過ごした。のんびりと配達・集荷をしてくっちゃべって1日を過ごしていたのでこの時期は全然苦しくもなんともなかった。というか、例の流行病の影響で物量が落ちていたので、会社全体としてその時期は暇だった。あの時期はバイトの延長線上みたいな感じで働けていたので一番楽しかった時期かなと振り返ってみたら思う。同期と適当に喋りながらとはいえ物運ぶから肉体的には疲れるけど。

 

研修先がローテーションになっている関係上、僕は次のちっちゃい営業所で配達をすることになり別のエリアへと動かされた。

その場所というのがなんと秋葉原である。電子部品の小売店メイドカフェ/コンカフェ、観光客向けのオタクショップ、カードゲームショップとゲームセンターの町だ。人がやたらと多い町であることは知っていたので単純に面倒くさいだろうなということを思いながら4t車の横に乗り見慣れた土地まで向かっていた。

ここで大きな問題が発生する。

前述した通り、ペアとなる同期と共に配達をする形で現場で働くというのが基本的な形になる。台東区でペアだった同期とは普通に仕事をしていたので問題が起きても一緒に何とかしていた。ただ、今回秋葉原で一緒に配達をすることになる同期がキワモノ中のキワモノであった。入社後のオリエンテーションの際に「山手線を一周することが目標です」と目標を掲げていて、且つ同期の女の子に京成スカイライナーのグッズをプレゼントしていたキワモノだ。趣味嗜好がおかしいから云々などという下らない主張をしたいのではない。一先ず距離感がおかしい人間であることだけは前情報として判断できたので、話し相手にはならないだろうということで会話がない仕事になるのかなとふんで現地に赴いた。

想定される事象より悪いことが起こるのが世の常である。そいつは仕事が一切できなかった。そいつはローテーション上初めての現場で、以前までは事務所にいたらしい。後から話を聞いたところ使えないから何も任せていなかったとのことだった。そんな彼に現場での対応の仕方等を僕が教えなくてはいけなかったため、懇切丁寧に教えた。地図も覚えきれていない状態で教えながら回るので大変だった。人にものを教えるとき、段階を踏んで教えるため初日はバーコードリーダー(伝票をバーコードで処理するために持ち歩きます)の使い方の本当に基本的な部分を教えて、これをやってくれと任せて後は自分で実際のものを配達するといった形でやった。しかし、翌日になるとそいつは何も覚えていない。メモも取っていない。メモを取ることだけが正解とは言わないが、一切覚えていないし出来ないとも言わない。やらせたら暫くその場でフリーズしているのだ。そいつは。想像してみてほしい。人に教えながらやってその分配達の量が減るわけでもないし、皆さん配達が遅れたら怒るでしょう?事務所から鬼のように自分宛てに「何時ごろ行けますか?」と聞かれる。2人分の配達量を子守りしながら一人でやらなければならない。2.5人分の負荷をかけられながらあの町で物を運ばなければいけない。死だ。

僕がスキャンまで済ませて、この荷物をここに持って行ってと指示を出した挙句、道端で配達もせずにサボってた時もあった。最低限のことすらできない上にサボる。の上に言葉は通じない。かなり限界だった。

そんな限界な様子が顔に出ていたらしく、「俺の顔がヤバすぎる」ことを理由に自分以外の同期が集められ会議が行われた結果、そのヤバ同期とのペアは解消された。問題自体は解決したので良かった(その後ペアになった奴はまともだった)のだが、当時秋葉原で流れていたアニソンやらなんやらを聞くと思い出してしまう。ただでさえ毎日あの町で同じ音楽(具体的な場所は言いませんがループしてる場所ありますよね?)を聞かされるだけでもかなり苦しかったし、特に僕は音楽と記憶がリンクしてしまいがちなので不意に聞こえてくるとうわってなります。

 

秋葉原の一部に異常に詳しくなった後、私は拠点内の現場作業に回された。主要荷主の荷物の中に、自動仕分け機で分けると壊れるものがあり、その荷物を分けるという仕事だった。仕事自体は簡単だが、とかく待ち時間が長かった。午前中に集荷し仕分け、夕方に集荷されたものを仕分け、最後は夜の便の積み込み場所までその荷物を置きに行くという仕事だった。

ここでも僕は人に狂わされた。作業員の中に障害者雇用の人間がいて、彼らへの指示出しも我々に任されていた。障害者雇用の人間のうち一人がしゃべるタイプの障害者で、やたらと質問をして来た。仕事をする分には上記の同期よりも遥かにマシで、言われたことはある程度はやってくれた。しかし、どうも僕はその障害者から「この人は何を言っても対応してくれる」と思われてしまったようで、しばらくすると「帰っていいですか?」と10分おきに聞いてくるようになった。まだ仕分けが残ってると説明しても何度も聞いてきた。ペアになった同期はもう僕にその対応を押し付ける方向で動いていたので、そいつの相手を四六時中しなくてはならない。ストレスがやばかった。そのうち、帰りたそうにしていたら僕は支店内を逃げ回って話しかけてこれないようにした。その結果、フォークリフトが爆速で行き来する中を全速力ダッシュで駆け回る障害者を生み出した。僕の手で。ちょっと面白かった。

何が辛かったかってこいつには何を言ってもいいと思われるような人間であるとみなされたことだ。社会に出たうえでこういう認識をされてしまうと、不当な負荷が増える。相手が相手だから下手になんか言って発狂されても困るし。ストレス解消のために捨てパレを蹴って暮らしていた。この頃は。

 

内勤〜本配属

 

その後、事務員の研修に入りようやくこの会社の基本的な従業員の仕事的なものをやることになった。入社してから半年近くパソコンを使った仕事をしていなかったのだ。僕は。

内容としては「いつ配達くるの?」「この荷物どうなっている?」の電話に答えるということを延々とやるという仕事だ。ドライバーに状況を(電話で)聞いて、客に答える。荷物がなければ現場を探す。といった感じだ。シンプルではあるが、回答をクイックに要求されるので目の前のことをひたすら片付けていかないといけない。時間が過ぎるのが滅茶苦茶早かった。後はドライバーとのやり取りが肝になるので現場からの信用を得ないといけない所もポイントだった。そういう意味で言うと現場とは上手くやっていたので意外とすんなり出来た。

問題なのは他店所とのやり取りである。社内で連携を取ろうと言う意思がこの会社には無い。例えば荷物が壊れたとしよう。そんなことはざらにある会社なのは一旦置いといて、荷物に何か問題が発生した際は発送元(荷物を集荷した)の営業所が出荷人とのやり取りをし、到着先の営業所が荷受人とのやり取りを任される。ここで、現認書と呼ばれるここの店所の誰々が壊した等の書類があればいいのだが大抵そんなものはなく、ウチは悪くないの主張を双方繰り返す形になる。到着先の担当は荷降ろし時点で壊れていたと言い発送元の担当は積み込み時問題は無かったと言う。ここで、相手方の店所担当者が話が分かる人であれば「代品依頼するので破損品は戻してください」で終わるのだが、めんどくさいのに当たると監視カメラを見ろだの幹線便のドライバーに連絡を取って聞けだの厄介な事を聞いてくる。シンプルに面倒臭い。面倒臭いだけならいいのだが、例えば配達先との調整を出荷人としてもらわないといけない等入り組んだ依頼を出荷人としなくてはいけなくなった場合、何故か到着店に全部押し付けられた。これは後述の本配属先で多発したのだが、酷い時は要件を伝えてる最中に電話をガチャ切りされるし、「意味が分からないので出荷人と直でやってください」などと抜かされることもしょっちゅうあった。職務放棄だ。

研修として振られてるエリアは大して物量がないエリアだったので特に大きな問題は起こらなかったが、ただただ忙しかったし電話口で客に怒鳴られたりとかもしたので大変ではあった。

 

そうこうしながら年が明けた。年が明けるなり、自腹でフォークリフトの免許を取らされた。自腹ってなんだよ なけなしの寸志はほぼ全額フォークリフト講習に消えた。資格はあるに越したことはないとは言え、フォーク乗れたところで同業界でしか使えないし、現場仕事でしか使えないんだよな。厳密に言うと免許ではなく、技能講習の修了イコール免許的な立ち位置になるので更新が要らない。要は今でも乗れます。フォークマン必要な時は言ってください。リーチは乗れませんが

 

フォークに乗れるようになったあたりで本配属が発表されるスケジュールだった。僕はたまたま横浜の方の支店に配属され、偶然の重なりにより故郷横浜市で働くことになった。とは言え僕の地元からはかなり離れた横浜だったが。

1年弱働いた時点で、①給料が残業時間で稼げというスタンスでボーナスが安く、死ぬほど残業しないと稼げない仕組み②何をするにもアナログで(全て電話とFAXでのやりとり、メールアドレス取得には稟議が必要)効率もクソもない働き方③休みが少ない(110日)の3点から転職は絶対にしようと決めた。ただ、本配属先の状況次第である(支店によってだいぶ雰囲気は違う)ことと、勤続年数が少ないままでの転職への恐れからまだ一旦我慢しようと決め、とりあえずは働き続けることにした。この決断が正しかったか間違っていたかは分からないが。

 

本配属先 前編

 

海の真横の営業所だった。配属日、湾岸線から見える根岸の製油所の炎を虚ろな目で眺めながら上司に営業所まで車で連れていかれた。引越し先が無い為、2か月くらい会社の真上の部屋で相部屋をし、その後借り上げ社宅に住むという流れになったので、しばらくその営業所の真上で暮らしていたのだが、とかく風が強い。海風に晒されながら今後は働くのだなと変な覚悟だけ決めた記憶がある。

 

研修で居た主幹店と違い、ドライバーも50人前後しかいない(これはそこまで多くないほうです)支店で、内勤も当時は社員は6人と他パート5人といった構成だった。主幹店と違い文字通りアットホームな雰囲気は実際あった(アットホームな職場という単語へのマイナスイメージはかなりあるが、この時の自分にとってはマイナスには働いていなかった)。配属当時は。

 

最初の1か月くらいはまだ慣れていないからね的な雰囲気で自分に振られる仕事もそんなに多くなく、意外にもホワイトな感じで働いていた。しかし、2か月目くらいから様子がおかしくなった。

 

同じ担当をしていた事務員が2人いた。1人は20代でもう1人は子持ちの40代くらいの人だった。前者は社歴7年か8年くらい、後者はベテランのはずだった。ただ、後者のベテランの人が要領が悪い。そこに時間をかける?みたいなことに時間をやたらとかけている。現場でずっと荷物と睨めっこしたりしていた。何の解決もしないのに。そして何よりドライバーと話したがらない。全部メモ書きで済ませようとする。ドライバーの棚にメモをぶち込んでおいて、「これ何だよ?」の流れをよくやっている光景を見た。ドライバーの気質上、直接話したほうが絶対に良いと僕は思っているので違和感はあったが仕事のやり方は人それぞれだし新人が何か出る節ではないと思っていたのでモヤモヤしながらその様子を見ていた。それでも僕が何かミスをしたときはカバーしてくれたので、仕事はやってくれる人ではあった。

前者の20代の社員が論外だった。会社の真上の社宅に住んでいた彼は、仕事を一部やったら部屋に戻って寝ていた。本人的にはやることは抑えている的なスタンスだったが、彼宛の電話が来ても彼はほとんど不在(寝てる)のためどうしようもない。結果的に他の人が一から要件を聞いて対応するみたいなオチになっていた。出社しているならまだいいが、彼は結構な頻度で体調不良を理由に欠勤をかます。上司に聞いたところ事前連絡がないことのほうが多かったとのこと。頭数としてカウントできないのだ。

おまけに風呂に入らない。臭い。結構ストレスだった。上記の生活を続けたことで年に2桁キロ単位で太っていたし。

オタクトークをけしかけられたことがあったので彼はインターネットには精通している。のでもしかしたらこの記事に辿り着くかもしれないから一つ補足する。

お前が登録者数2桁の個人Vtuberをやっているのをたまたま見つけたのにバラさなかった僕の優しさだけは忘れるなよ?あまり人にスマホの画面は見せないことだな

 

以上2名と働くにつれどうなったかというと、後者の特定の関わりたくないドライバーの担当エリアの案件と、前者の対応していない業務が僕に集中することで単純に僕だけが忙しくなった。人が増えているのに。僕が来ることで面倒ごとだけが僕にのしかかり他二人は楽になったという状況だ。この状況は僕が発信するまでもなく、現場からも言われていたし上司の判断でも僕は別の担当に移った方がいいとのことで一旦僕は別の担当に移ることになった。支店内での役割変更といったところだ。

 

新人があんなにこき使われてかわいそうにとドライバーから憐れまれていたのか分からないが、頼まれたことをやってくれる人間としては認識されたのでペーペーなりに信用はされていたのかなということは後から振り返ってみると感じる。他二人より相対的にマシなだけだろうが。

 

本配属先 後編

 

担当が変わって私が何をやっていたのかと言うと、営業の担当である。運賃改定交渉やら見積書発行などいわゆる営業的なことを任される立場だった。

いわゆる営業ってゴリゴリに客先に出向くイメージになるのだろうけど、こういう会社での営業マンって本来は見積書出すだけの人であるべきなんですよね。

というのも、普段配達をしているドライバーの方が余程その地域に根差して行動をしているわけで、「ここに配達したけど他社で荷物出してたよ」とか「ここに新しい倉庫できるよ」とかの細かい情報を吸収することについてはドライバーの方が役目としては向いている。配達して会話をしたりするなかで引き合いが来る方が自然だし、人と人とのやり取りから発生した仕事であれば何より担当ドライバーはないがしろにはしないのだ。ぽっと出の営業マンがテレアポなりなんなりで突撃するよりもそういったやり方のほうが遥かに受注率は高い。アナログなことを言っているかと思われるかもしれないが、会社としての優位性がない中そういったやり方で取っていかないと成り立たないのだ。

とは言え、本部から様々な課題や報告事項が降りてくるため、それをごまかしながら報告を上げ、運賃周りのデータ管理などをしながら過ごした。

他にも大型案件の立ち上げのために現場を手伝ったり(夜8時くらいまで一緒に積み込みをしてその後基幹店で荷下ろししたりとかもあった)、一斉出荷の荷札を作ったりなど、イレギュラーな対応をメインにしていた。

顧客窓口的立ち位置としていることができるため、営業の仕事自体はそんなに苦しくなかった。いや苦しくはあるが

 

営業になったぐらいからだろうか。伝票の登録作業というのがあって、毎日その作業は発生する。元々それをやってくれていた人が転勤になり、私は毎日それをやることになった。これが相当ストレスだった。別にやり方を覚えれば他の人でもできる作業なのに、覚えてしまったがために毎日やることになってしまった。何が問題かというと、ドライバーが全員帰ってこないとその作業が完了できないので必然的に帰りが遅くなるうえに、その作業が何かの片手間に出来る作業でもないから自分の仕事が全て止まるのだ。

毎日夜8時半以降に自分の仕事をするといった生活を続けなくてはいけなくなった。そんな状況にもなるともう帰宅しても何も手につかないし、何も出来ない。

おまけに上記の通りサボる奴のフォローが俺にたまに回ってくる。正直限界だった。

休みも変則、給料も安い、仕事も余計な事がついて回り過ぎ、そして何よりこの会社にいることで自分は何も得られないと確信した。

 

〜退職

 

年明けてから転職活動を始めた。

休みも変則的な上、通常会社が動いている時間帯に退勤することができない状況だったため、転職活動をする上での一番のネックは日程だった。

合間を縫ってたまたまかみ合った会社に内定を貰ったのが5月頃だった。

転職活動をして思ったが、仕事をする中で自分は日々の業務に追われるだけで何かを成し遂げたことはなかったなと。人生においても何も成し遂げていないが、仕事でも何も成し遂げはしなかったなと。成功体験からくる有用性をアピールしなくてはいけない面接において致命的だった。現場と調整できるだのなんだののワードは大体転職エージェント的な人に考えてもらった。あの2年は何だったんだろうか。未だに思う。ただただ時間と体力だけを失った2年だったと思う。

 

退職する旨を上司に伝えた時の上司の表情は多分忘れることはできないと思う。普段からフランクに話をしてくれて、なんかあったら助けてもくれたし感情的になることもなく笑いながら対処してくれる割と理想の上司だった。あの会社以外で出会いたかったような人だった。

 

例に漏れず引き継ぎ相手もクセモノだった。

ずーっと独り言を言っている人だ。それもかなり大きな声で。前述のVtuberと喧嘩したりもするし、電話口でドライバーを詰めたりと、不和をもたらすムーブをする人だった。大体の行動に感情がガンガン乗るタイプ、悪く言えばヒステリックなそんな20代の女性相手への引継ぎをラストひと月半で行うことになった。

まず、それまでの担当業務の先輩社員をいたくリスペクトしていたせいで営業の仕事の引き継ぎに時間を割いてくれない。話してる途中にそっちの業務の方に気が行ってしまう。上司パワーを使ってその仕事から手を引かせてやっと引継ぎの時間を作った。

というものの、上記の伝票登録の仕事も引き継ぐことになるのでその時間と他の営業の仕事を引継ぐという事をやるとすごく時間がかかる。そして人に教えるという行為はものすごく疲れる。ぶっちゃけ辞める間際の引継ぎ業務が1番疲れた迄ある。

手を動かす内容についてはぶっちゃけ手順書なりなんなりがあれば問題がないと思うのだが、結局のところ対現場折衝がかなり肝になってくる部分もあるのでどうしてもコミュニケーション面を何とかしてやらないとどこかで詰まるのは目に見える。自分自身の性格/行動すらどうにもならないのに人に講釈を垂れないといけないのが非常に苦しかった。人それぞれやり方はあるとはいえ毎日時間に追われながら現場で配達をしてるドライバーに電話口で詰めて回るようなことはしないでねとやんわり伝えるくらいしか出来ないし、お互い助け合ってやってるんだからこっちが細かい事を対応してあげればあちらも対応してくれる(少なくとも僕の依頼は結構現場サイドで聞いてくれたので)なんてのは既に各所で喚いてしまった人に説いても手遅れなのだ。

迎えた退職日は非常に心は軽かった。始終苦しめられた会社にもう行かなくてもいいというのは結構爽快なものだ。この会社を辞める人に円満退職は少ないらしい(同期は1人退職代行を使って辞めていた)。そういう意味では後を濁すことなく一応の謝辞を込められ事務所を後にすることが出来たのは最低限の義理を持つことが出来たのかなと後から思う。

退職した帰り道は温めていた画像をツイートしながら自転車を押して帰宅した。

https://twitter.com/preciousheart35/status/1535256109794988032?s=46&t=EcpnunvJqvx8GpAtWnWffw

 

振り返りと所感

 

前述したが、辞めた理由をまとめると以下になる。

1.給与面(安い)

2.残業(自分でコントロール出来ない)

3.他で潰しの効く業務内容では無い

4.人

転職したことにより1~3の要因は解決出来たし、4に関してはどの会社でも起きうるものなので様子見というところだと思う。

転職した事で最低限人間らしい生活をすることが出来ているので、目標としてはクリアだと思っているし後悔はない。

運送会社に居た者として切に主張しておきたいのは、今後どんどん物は届かなくなるという点である。

インターネットを眺めていると配達が届かなくて怒ってる人が結構いるように感じる。まあ確かに待つ分時間を取られるし、利用者側からしたら知らねえから早く持ってこいというのが意見だと思う。ただ、実態を現場で見たものとしては今後もっとモノは届かなくなるよというとは伝えたい。

24年問題と言って、ドライバーの残業時間の上限が厳しくなる問題がある。どの会社も今の輸送網というのは残業ありきで成り立っていて、そのリミットが厳しくなると現行の体制が保てなくなる。何が起こるかと言うと恐らくリードタイムが伸びて翌日着いていた荷物が着かなくなることになるみたいなことが多く発生するだろう。また、夜に再配達を頼んだりするシチュエーションもあるだろうが、それもなかなか対応が難しくなるだろう。

24年問題は来年の話で直近の話題だが、長期的に見るとドライバーの高齢化も著しい。僕がいた営業所も50人近くドライバーがいて40代以下の人数が1桁人だった。会社側も人を雇おうとはしているが、準中以上の資格取得を補助出来る体力がない会社がほとんどだ。ドライバーになりたいと志して中型なり大型なりの免許をとる若者なんてそんなに居ないわけだ。どんどん運び手は居なくなるだろう。Amazonとかがどういうスキームで軽四の傭車に依頼してるのかは分からないが、長距離ドライバーがいなかったらあのクソデカ倉庫から各拠点まで運べないわけで。例の流行病がピークの時、受領印を貰おうとしたら大量の消毒液をぶっかけられたドライバーも居たと言う。職業差別も存在するような世でドライバーを志す人はどれくらいいるんだろうか。

説教臭いことを言うが、人ありきで生活は成り立っているのだから感謝しろなんてことは言わないがそこに対する想像は少しでも巡らせて欲しいな、と思う。ブチ切れて10tで人に向かって突っ込んでくるようなドライバーや、何ヶ所も配達先から出禁を食らってるようなドライバーとも出会ったが、彼らも人だ。少なくとも僕の頼みは聞いてくれたし、自分のところの客は大事にしていた。ドライバーと喫煙所でくっちゃべる時間は今思い出しても結構楽しかった。

 

思い出に浸ってしまったが、今後荷物を受け取る時に少しでも思いを巡らせてくれたら僕が無駄にした2年間が浮かばれます。1インターネット人の経験談として脳の片隅に何かを残していただければ幸いです。あの会社にいた事で広島県は嫌いになりましたが。

 

とりとめが無くなりそうなのでこの辺で終わりたいと思います。また気が向いたら。