"嫌"

ここのところ気圧の変化による頭痛に苦しめられています。偏頭痛と腰痛持ちのalpconです。 別にそうしてるつもりはありませんが、だんだんこうして書く文章も踏み込んだ内容になっていくような気がしています。自分の過去の経験なんてのは話すだけなので楽ですがそうでない内容に手を出すとなると僕の内面をさらけ出すことになり怖いようなそうでないような不思議な感覚になります。

抽象的な話にはなりますが嫌なことっていっぱいありますよね。生きてればいっぱいあります。そんなことは。細かいところから大きいところまで。そんな話をしていこうと思います。

嫌と感じる時って、何?

人それぞれでしょう。身も蓋もないけれど。今日あった出来事でいえばゲームセンターで待ち椅子で駄弁ってる集団がいて並んでいるのか並んでいないのかわからないような人がいたことです。細かいことから大きいものまでその"嫌と感じる閾値"も違いますしその方向性も出来事もまちまちだと思います。そんな話したところで何になるのかなんて言われてしまえばそれまでなのですが、できれば嫌なことなんてない方がことはスムーズに進むし不快な思いをせずにすむでしょう。当たり前ですが。ただ1億2000万の人が住むこの国、もっと言えば80億の人間が暮らすこの世の中で人がそれぞれの価値観を持ちうる中人で嫌な思いをしないなんてことは不可能だし夢のまた夢なのです。 じゃあ嫌という感覚はどこから来るの?と考えた時また難しくなってきます。嫌という感覚は不快の部類に入ります。多分。痛いとか苦しいとかの身体的な不快も嫌なことには入りますが感情としての"嫌"はなんなのか。多分"嫌"というのは自分の道徳観や価値観に逆らう出来事、または道徳観や価値観に逆らう出来事が予測できる場合に対して感じるものだと僕は考えています。上記のゲーセンの例だと①ゲーセンにある待ち椅子というもので並び順が管理されているものという考え②並び順が曖昧だった時にトラブルになる可能性がある(過去実際にあった)という考え③周囲の状況に配慮して行動すべきという考え④ゲーセンという人種のるつぼのような場所に来ている人間がまともな価値観を持っておらず並び順云々の話をしたところでまともな回答をしてこない可能性があるという考えの4つの僕の考えから産まれた感情が"嫌"だと思います。 あくまで僕の場合はそうだというだけで過度に一般化する気は毛頭ありませんが、嫌だと思うことには大抵原因がある(たまに言う人がいる『生理的に嫌だ』というイレギュラーは除いて)と思います。その原因を突き詰めたら多分何かしらの自分の価値観や道徳観に逆らうものだったりするのではないでしょうか。

人と人の関わりは衝突である

もし仮に自分が暮らす世界がだだっ広く誰もいない空間であるなら"嫌"と思うことはおそらくないと思います。僕は。1人は嫌だと思うことがあったとしてもそれは"嫌"ではなく"寂しい"という感情だと思うので。しかし僕らが暮らす世界は人が大勢います。僕らだって親が昔存在したから今この世で生きているわけです。人との関わりは避けては通れません。また人と人とで違う考え方をしているという前提がある以上、人と関わると価値観の差が生まれその差が僅かなものであったとしてもそこには衝突が生まれるのです。無理なんです。嫌な思いをしないなんて理想を叶えるのは。その衝突を皆さんがどうしているのかは僕は知りません。しかし衝突があるということだけは確実に分かります。その衝突は時に刺激となりその人の考えに影響を与えることになるかもしれませんが、大抵の場合その衝突は"嫌"という感情に昇華されることでしょう。 では人々はその感情をいちいち行動として発露させているのでしょうか。そんなことになったら年中各国各都市で内戦状態です。きっと人それぞれのやり方でその感情を抑えるか発散させるか、あるいはなにかの方法で飲み込むかなどしてると思います。愚痴なんか分かりやすい方法です。嫌なことがあってそれについてどう思うから嫌なのかを対象を問わず話す訳ですから愚痴というのは非常にいい発散方法であり、思考の整理方法だとも思います。自分の愚痴が文面になってる時それを読み返すと自分がどんなことをされると嫌なのかがよく分かります。意外といいですよ。

僕は嫌なことがあった時感情を抑えて愚痴にもしないことが多いです。嫌なことというのも多分本気で嫌なことになればなるほどそうする傾向があると思います。バイトで変な客がいたとか何か行き詰まったことがあるとかそのレベルだったらむしろめちゃくちゃ愚痴にしてると思います。僕は。でも、本気で嫌なことは多分愚痴にもしないことが多いです。なんでなのかを考えたら多分怖いんだと思います。本気で嫌なことってなると多分僕の価値観や心の核心に近いところにその衝突が産まれている出来事になるわけで、当然その価値観や心を話さないことには愚痴としての解決方法は成立しないのです。冒頭でも少し言いましたが自分の内面の核心に近いことを話すのって怖くないですか?僕は怖いです。なぜなら否定される可能性があるからです。ここまで考えて愚痴を言わないことにしてるのかと言われるとそうでもありませんが、多分内面ではこんなことを思いつつ嫌と言う感情の火に水をかけて消しているのかなと思っています。

「人にやられて嫌なことは人にするな」は通用しなくなった

幼少期とかに「人にやられて嫌なことは人にするな」と教えられ育った人は少なくないと思います。僕は多分そうでした。親に言われたのか誰に言われたのかは定かではありませんが多分準座右の銘レベルには心に刻まれていた言葉だと思います。割と理にかなっていていろいろな事象に当てはめることが出来る便利な言葉だな、とも思っていましたし。自分がやられて嫌なことというのはしっかり掘り下げてみれば色々あります。それを相手にしないことで軋轢が生まれないのであれば、と昔は行動していました。 時に狭く時に広いインターネットという物が文字通り手元に現れ大量の人間が発言をするSNSに浸かり始めてからあることに気づきます。そう、自分が嫌でなければ何をしてもいいという信条をもとに行動している人の多さに。年齢が上がるとともに多少は人の気持ちを想像して行動するようになるなんて考えは甘えでした。人は容赦なく"嫌"の境界線を踏み越えて来ますし、軋轢が生じることなんて恐れていません。一言で言えば自分さえ良ければいいのです。

インターネットで大炎上し個人情報がオモチャにされた長谷川亮太という人物が残した強がりのような冗談のような発言があります。

俺は嫌な思いしてないから それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ だって全員どうでもいい人間だし 大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん それはリアルでの繋がりがないから つまりお前らに対しての情などない

この発言、発言者の意図はどうせしょうもない煽り目的なのでしょうが非常に大衆の考えを表してると思います。後半はさておき、「お前らが嫌な思いをしようが俺の知ったことではないわ」という言葉、だいぶ的を得ていると思います。変な話、人がどう思うかなんてのはこちらがいくら想像をしても正解はありませんし、そのぶんこちらも息苦しくなります。はなから人の気持ちを想像せず好き勝手し、人との軋轢が生まれようとこちらが嫌な思いをせず楽に生きれるならそらはとてもイージーな話です。人は楽な方に行くのが当然なのでこういう考えに至る人が多くなるのも納得がいくように思えます。人にやられて嫌なことは人にしないなんて理論は人の気持ちを想像する面倒さ、こちらが折れる手間を考えた時に非常に骨の折れる話なのです。俺嫌理論と比較した時にどちらが楽かは一目瞭然でしょう。

じゃあ僕がその考え方になったのか、と聞かれるとそうはなりません。いいえ、僕にはその考え方が出来ませんでした。 俺嫌理論(長谷川亮太の考え)は楽です。人の気持ちを想像しない分には。ですが僕はどうしても人の気持ちを過剰なまでに考えてしまうので日々厄介な悩み事をするタイプの人間です。こういう所が面倒くさいと言われるゆえんです。好き勝手やる応酬が怖いのかも知れません。人の視線が怖いのかもしれません。どれにせよ多分僕は人の気持ちを考えないことは無理です。 多分この性格は一生損をし続ける性格でしょう。誰も人の事なんて考えてないのに僕だけ人のことを考え折れ続けるのでしょうから。思えば山ほどあります。僕だけが折れ我慢をし何かをしたり何かをしなかったりと強いられたことは。周囲が人のことを考えていない以上人のことを考えて損をするのは自分です。考え事をしない性格ならこんなことにはならなかったのでしょうが。

対処

嫌なことがあるたびこのように文章に起こしていれば気は紛れるでしょう。しかし僕はそうはしたくはありません。致命的に嫌なことがあってすぐに文として書くのもまた一興でしょうが1度飲み込んで反芻してわかることも多いでしょう。こういうことが嫌なのだからこういうことを回避するように行動しようとか。 何よりも僕はスルーすることを重んじています。スルーとひとくちに言っても無視するとかそういうのではありません。直接的であれ間接的であれ嫌なことをしてくる人に火に油を注ぐようなことをするのが1番良くないと思っています。僕を嫌がらせようと思ってやってるのなら尚更ですがそんな手間のかかることをする人が多いとは思っていません。ふと嫌なことがあったとしても1度飲み込んでスルーするのが重要だと思っています。飲み込むというかそういう人に「あなたのこういう言動は人を不快にさせる可能性があるからやめた方がいい」なんてセリフを僕が言ったとしても聞いてもらえる訳がありませんから。諦めが肝心です。そういう言動を相手がする方向から遠ざける努力だけは出来ると思います。そうやって生きて疲れた時は1人で温泉にでも行くといいと思います。僕は風呂が好きなので時々1人で銭湯に行くことにしてます。裸の人間は無駄に干渉なんてしてきません。湯上りにフルーツ牛乳と共にタバコでも吸ってればいつの間にか嫌なことは湯けむりとともに消えているでしょう。雑なように見えますが僕の嫌なことに対する考えはこんな感じです。

何故文を書くのか

寝ても寝ても疲れが取れず、寝すぎてまた生活リズムが崩れ疲れが溜まっています。最近フォロワーに本気で体調を心配されるalpcon(あるこん)です。

開設時にも申し上げたとおり僕はこのブログを開設する前にもブログを書いていました。IDとPwを忘れてインターネットデブリと化しましたが。ここから分かる通り僕はブログを書くこと、ひいては文章を書くことが好きなのかも知れません。その事についてひとつ、考えていこうと思います。

"書かされる文"

幼稚園の時とかから文章を書くことが好きだったのかと言われるとそれは分からない、と言うより多分不可能でしょう。読み書きが不完全なのですから。幼稚園の時は絵日記を書いていたようで、見返すと文章より絵の方が量が多いレベルでした。 小学校の時文章を書くのは専ら小学校の宿題やらなんやらで読書感想文だったり学校行事の感想だったりと、"与えられたお題に対しての感想"を書かされるものでした。多分めちゃくちゃ嫌がっていたと思います。なぜなら提出を求められる時点で好き勝手に書くことが出来ないからです。当たり前だ。 中学校に関しては文章を長く書いた記憶がありません。真面目にやっていなかったからなんでしょうが。

高校の時、恐らく人生最長の文を書きました。反省文です。なんの反省だったのかも思い出せませんが、別記事で滔々と語った通り異常だった高校から何かのヤラカシに対して原稿用紙20枚分の反省文を書くよう求められたのです。学校が処分ではなく反省をさせるような事というのは決まってしょうもない事なので20枚も書く内容なんてありません。100枚書かされていたヤツもいましたが反省文では書くことがあまりにもないので人生に対する振り返りをするしかないのです。僕は○○時代に△△をした、△△の時こういうことをしたのは僕がこう考えていたからでそれが今の自分の体たらくに繋がった、みたいなことを永遠と書くのが反省文の定石でした。今考えればこの方法、人のメンタルを的確に削る方法ですよね。お前はこういうことがダメだというのを自分の人生全体から自力で探し出しそれを文章として書かせて提出させる訳ですから。まあ当時そんな所まで考えは及んでいませんでしたが。

このように文章を書くのは(高校の時の僕の例は極端だとして)普通あまり進んでやるものではないものだと皆さんも認識してると思います。ほんとか?

ではなぜ文章を、それもインターネットに

僕は文章を読むのが苦手です。文章を読むのが苦痛過ぎて定価で買ったエロゲを超序盤で放置するレベルです。そんな僕はなぜ文章を書くようになったのか。

ご存知かどうかは分かりませんが、僕は非常にめんどくさい人間です。めんどくさがり屋じゃなくめんどくさい人間です。何が、というと一々考え込むところです。起きた出来事や今日あった印象深い出来事、また過去の自分の出来事全てに関して恐らく永遠に考え続けてるタイプの人間です。こと自分の失敗においては永遠に考える、と言うより後悔し続けている人です。 人が物を考えると当然ですが善し悪しを問わず着地点、結論がどこかで出ます。そしてそこに至るまでの思考回路、過程というものも存在するはずです。僕はこう考えたからこうだと判断してる、という話をいちいち覚えていられるかと問われると微妙だと思います。人の考えなんて常日頃色々なものに接して変わっていくものです。それを咎めてはいけないと思います。ただ僕はその時々僕がどういう考えでこういう思考に至ったのかを覚えておくとまではいかなくとも知っておきたいのです。備忘録とでも言うべきでしょうか。文章という形で残すのが最適だろうと僕は考えブログを書くことにしたのです。

ほぼ個人ブログのように使われているTwitterを使っておきながらブログを書く理由は?思考の過程と結論を記すならTwitterでもいいじゃないか、と言われるかもしれません。が、まともなTwitterの使い方をしている人であれば僕が他記事で記しているようなめんどくさい思考回路をいちいちTwitterに記していると客観的に心底印象が悪いのは分かると思います。揚げ足取りとマウンティングが盛んなTwitterで個人の考えを記し茶化されるくらいならブログの方がいいのは自明でしょう。

このように考え僕はブログを書くことにしました。

自分の考えを書く意義

備忘録と称し自分の考えをつらつらと書くことにしたのですが、非常に筆が乗ります。思った以上に適性があったようです。

先代ブログ(IDpass紛失)は近況を不定期で書いていました。が、近況と言ってもその近辺の時期に起こった出来事に対してウダウダと自分の考えを語る感じで書いていました。今とは少し毛色が違いますね。

ある特定の出来事に対しての考えを語るようになったのは最近の話になります。 じゃあなぜ僕はこうインターネットの辺境で他人に見えるように語っているのでしょうか。 同じように過ごし、同じようなことをした人がいたとしてもその人の思考回路というのが自分と全く同じである可能性というのは極めて低いです。同じ結論が出ていてもその人と自分では考えの過程が違うものだと思います。人の思考を自分の中で再現するのは不可能でしょう。そんな時に人が自分の思考回路について記した文章があったとしたらどうでしょうか。この場合に限り人の思考の追体験が出来ることになるのです。他人と自分が融合することは不可能ですがその内面を僅かでも覗き見ることを出来る機会が作れるとしたら、それは記された人の考えを読むことなのです。講釈を垂れていますが僕はこう考えています。

じゃあ「全世界よ、俺の考えを見てくれ」と言っているのかというと首を縦には振れません。しかし、Twitterというライトなコミュニケーションの場を離れインターネットの辺境たるこのブログにまで来るような人であれば多少自分の考えを見て何かを感じてくれるのではないのかな、と勝手に期待しています。 内容については正直どうでもいいのです。薄っぺらい人生と人として矮小な器をひけらかし自虐と懺悔をしたいのなら犬にでも語っていればいい。僕は考えを述べることで人に何か考えるきっかけを与えることができたら幸いだな、などと考えています。僕自身が考える人間だからそうなのかもしれませんが、やっぱりものを見てすぐに結論を出すのはもったいないと思っています。僕の考えを見てめんどくさいヤツだなと思うのは正しいしほとんどの人間はそう結論づけ僕に踏み込んでは来ませんでした。あさましく押し付けがましい願望であることは分かってはいますがやっぱり何かを見たらすぐ飲み込むのではなく反芻して欲しい、なんてよく思ってます。僕の考え込んでる時間というのはその反芻を行ってるわけですがその時間が無駄であるとは決して僕は思っていません。多分人ってそうやって色々と学んでいくんだと思います。

さいごに

僕の考えの追体験、などと言いましたが僕は他の人の考えも知りたいです。 自分語りというワードで人の語り口に封をされることになってしまっている昨今のインターネットに抗い、僕は色んな人の"語り"が聞きたいです。僕だって色々な人の思考を追体験したいです。多分面白いじゃん? インプットされたものをそのままアウトプットするだけでなく、その間にワンクッション置いて何をどう考えたのかという語りが僕は聞きたいです。本来人と人のコミュニケーションってそういうものだと思います。主語が大きすぎたか。多分僕はそういうコミュニケーションを望んでいたのにそれが出来ないからこんな所で一方的に吠えているのでしょう。たまにはそんなめんどくさいコミュニケーション、してみてはどうでしょうか。

忍びがたきを忍び耐え難きを耐え -高校三年生編-

疲れが本当に取れなくなってきて困っています。夜型を越える夜型人間のalpcon(あるこん)です。 ダラダラと書いてきた自分の高校生活もいよいよ3年生編に突入しました。高三が3、4年前の出来事ってあまり信じられませんね。といっても3年生はそんなにビビッドな出来事もそんなになかったので高校生を終えた僕の話になると思います。 一応続き物です。読んでない人は前から読んでみるのもありかも知れません。

前の前↓ https://alpcon.hatenablog.com/entry/2019/10/29/061044

前↓ https://alpcon.hatenablog.com/entry/2019/11/02/120154

帰国、そして受験への過渡期

地獄の研修を終え日本に帰国した僕を待ち受けていたのは、「親への感謝を伝える会」でした。生徒主体でそのイベントをするとのことですが、またここでも1年生の時にやらされた例の民族舞踊をやるという話になりため息が止まりませんでした。幸か不幸かそのリーダー的な役割をやる人が「やる気がないのならやらなくていい」と息巻いていたため、「じゃあ不参加で」といって便所でインターネットをして遊んでいました。その期間は。 その会が終わった後の期間は受験へ向けてのムーブをしていくことになります。もう高校三年生になりますからね。世間では当たり前のことです。しかしながら受験勉強を放棄し海外にいた我々に一般受験での勝ち目などありません。そこで現れる選択肢がAO入試公募推薦という推薦入学の選択肢です。同級生でも一般受験をする選択をしたヤツらは少し居ました。しかし勉強をしなかったせいでこのFラン高校に来ている自分がそんな選択肢を選ぶはずもなく、推薦入試を受ける流れになっていくのです。 思えば今まで自分の意思で受験に関する選択をせずに来ました。中学受験だって小学校の学区がわりと中学受験勢が多かったしたまたまそういう塾に通っていたという理由だけで惰性で受験をしました。そして高校受験は致し方なく追い出され受験をし、大学受験も流されるままに推薦入試を選択。なんだか芯のない人間だなと今でも自分で思います。自分の意思でやりたいことを見つけ、それ向けて何かをする人と対極に位置する人間として成長してしまったなという感じがして悲しいやらなんやらよく分からない感情になります。

話を元に戻すと推薦入試を受けるためには一部の大学では英語系の資格が必要になるので、この時期はその勉強もしたりしてました。この時期に取ったTOEICの点数が失効してなかったら就活もう少し上手くいったんじゃないかという恨み言はさておき、この時は少しは英語力があったんじゃないかなと思います。今や見る影もありません。

この時期にあった事で僕の中で本気で思い出したくないようなこともありますが思い出して気分が落ち込むのもバカバカしいので書かないという歯切れの悪いマネをさせてもらいます。

こうしてゴチャゴチャと過ごしているうちに僕は高校三年生になりました。

本領を発揮する高校

高校三年生になると2個下の学年が入学することになります(一個下は僕らと入れ違いで海外に行くので)。その際、教師から「後輩の前で示しがつくような行動をしろ」とのお達しがありました。恐らく僕とかほか数名の連中が毎日のように朝会に遅刻してくるのがアレだったのでしょう。どうしたらいいのか自分らで考えろとなげやりのような自由度の高いような選択肢を生徒に与えた結果、学級委員長的なポジションの人達の決議により「7:55に朝会の席に着席していなかったら朝会のホールに入れずに外に出す」という何ともまあクラクラするような事が決定されました。そんな小学生みたいに教師を盲信したような結論を出さずともやりようがあるだろうと遅刻常連の連中は相当文句を言っていたような気がします。この高校に3年間通い、高校のスタンスを疑いもせずにインストールされた生徒を見ては「これ洗脳みたいだな」とかぬかしてたような記憶があります。 他にも多数軍隊的規範がヒートアップした事例はありましたが、見ての通り夜型人間の僕には1番これがこたえました。結局外で立たされた者同士でくっちゃべるか着席して寝るかの違いだから本当に関係なかったですが。

推薦入試は一般受験よりは早い時期に行われるため、夏前くらいから早いところは受験ムードになっていました。受験ムードというのは僕の高校の場合推薦入試に使う自己推薦文の添削と面接練習が主になります。正直死ぬほど悩みました。推薦するような自己なんて無いと。かろうじて留学について語ることで文の尺を埋めていましたが、まあまあ苦戦しました。今でこそこんなにダラダラと文章を書く人間ですが当時の僕にとって自己推薦文1本というのは難産でしたね。幸い文章書きの仕事もやっている母親の手を借りることも出来たのでそこに関しては何とかしていました。 僕の志望校は正直学歴のレベル帯と多少でも興味がありそうなところ、また今ある自分の材料で受けられそうなところという動機でしか選びませんでした。その結果志望校も方針がブレブレとなり、自己推薦文の方針が固まらないという状況になったりもしてました。 何よりも苦しかったのが面接練習です。僕は人と話すのが客観的に見ても得意ではありません。そんな僕の面接練習では教師からペットボトルが飛んできました。笑い話になるのでそんなに嫌ではなかったです。ただ話す時に「え〜っと」とかを多用するのが面接に向いてないのは確かでしたね。

受験ムードに本格的に突入した僕の学年で2つの話が流れてきました。 1つめが、「ある大学を受験する予定のヤツにはその大学受験に必要な数値の評定平均を無理やりあげている」という話です。「ある大学」というのは僕が今いる大学なのですが、弊学の公募推薦には評定平均が必要だったのです。それを無理やり上げているという噂が流れ非常に学校に対する不信感は抱きました。なんの為の評定平均だよ、実績作りのためならなんでもするのかよ、と。当時の僕はその大学を受けようとしていた段階なだけありなかなかにこの情報に打ちのめされてました。 比較的推薦入試の終盤になってから流れたのが二つめの話で、「○○(女子)の自己推薦文、△△(教師)が書いたらしい」という話です。自分が苦しんだからお前もやれ理論は嫌いですがあの自己推薦文も自力で書けない人が受験するの、どうなの??と本気でヒリついてました。 代筆、評定平均盛りの2点の話から僕は「インターネットで浪人生が推薦叩くのも分かるわ、肩身狭く生きよう」なんて考えてましたね。本来は高校生活をちゃんとやった人達が利用し合格する推薦入試なはずなのですがこんな光景を見せられてしまうと何も言えません。

受験の過程で高校へのヘイト値はMAXになり、冬へと突入していきました。

大学合格、そして卒業

4つの大学の推薦入試を受けた僕は初っ端に2つの不合格が告げられ、最後の最後(発表の時期的に)に2つの大学の合格するという感じで大学への進学が決まりました。 しかしながらこの時点で既に僕には大学生活でやりたいことなんて1つも見いだせませんでした。死ぬほど打ちのめされた高校生活を生き抜くのに必死だった(当時は)僕に大学生活なんて見据えるほどの余裕はなく、受験が終わってからは死人のように家にいた記憶があります。 犬の散歩をしたり、プラモデルを作ったり、インターネットゲームをしたりと好き放題して過ごす時間というのはたぶん高校3年間を通して始めてこの時期に生まれたと思います。

卒業式の日の記憶、特にないですね。これでやっと最後だということは思っていたのでしょうが。謝恩会みたいなのがあってそこで無限にジュースでも飲んでいたと思います。卒業式後の日々は大学生活への希望も特になく、監獄からの解放をされた僕は放心気味で日雇いのバイトとかをしていたと思います。 こうして僕の高校生活は幕を閉じました。

爪痕

日々を生き抜くことに必死だった高校生活3年間が終わり大学へ入ってから僕はいくつかの事に気付かされます。 毎日高校へ行き帰り寝るという生活しかしていなかった僕には趣味らしい趣味もなく、また1年間日本とインターネットから引き剥がされた僕は"中身の無い人間"に成り果てていました。高校生活のうちに何に打ち込んだ?高校生活のうちに何かに熱中した?高校の時に流行っていたものは?何も知りません。周囲の特異な文化と世間一般の文化は乖離しています。大衆を陰陽で分けるとするなら僕は陽の文化も陰の文化も知らずに大学生へと放り出されたのです。それだけでなく僕には文化を吸収するような習慣というのがついていません。どんな趣味趣向であろうとある程度アンテナははっているものですが僕は何かを吸収する習慣が著しく欠落していると気付かされました。ドラムをやっていたのに邦楽も洋楽も知らない、陰気なくせにアニメもゲームも大して知らない、人間としての深みも面白みもない""であると気付かされました。

高校生活を振り返ると、僕はただひたすらに3年間を浪費したと感じさせられます。結果今の僕があるとしても僕はこんな高校生活を送る必要があったのか今でも悩まされます。一連の記事を書くために高校生活の思い出をほじくり返すとなかなかに精神的にやられました。高校生という多感な時期にボコボコに打ちのめされるイベントが多くあった結果が今の自分だとしたら僕はただのスクラップなんじゃないでしょうか。 しかし、多分今の僕がいちばん得意な事は「諦めること」です。高校生活のせいで文化が欠落したことも、色々嫌なことがあって考え方がおかしくなったことも今の僕にはどうしようもありません。諦めるのが手っ取り早いです。今何を足掻こうが過ぎた時間は戻りませんしやったこともやらなかったこともどうしようもありません。ひとつ出来ることがあるとすれば"こうやって長々と高校生活を追憶し、今の自分なりに記憶の棚を整理すること"だけだと思います。

忍びがたきを忍び耐え難きを耐え-2年生編-

月も11月に変わり社会人になるまでのカウントダウンがされていることに必要のない焦燥感を覚えています。卒論がしんどいalpconです。

前回の続きで僕の高校生活について話をしようと思います。

続きもので前置きを長くするのは僕の意に中るところでは無いのですが、僕は高校生活の不幸自慢がしたい訳ではありません。僕/私の方が辛かったとか、このような経験をした僕の気持ちなんて分かるまいなんて主張をするために長々と文を書いている訳ではありません。ただ、こう時間がある時に(卒論をやれ)じっくりと自分自身の経験についてを振り返り考えてみたいだけなのです。人生のモラトリアム期間にやるにはうってつけでしょう。聞かれてもいないことに答えた所で高校二年生の僕について振り返りたいと思います。色々なことがあったため非常に長くなっていますので暇な時にどうぞ。

 

サバイバル・留学生活

 

  • 縛りプレイ

高校二年生(厳密には高校1年生の1月末から)にして僕は監獄の高校から抜け出し飛行機に乗せられ南半球まで飛びました。留学を志す人間とは対極の人間性を有した僕でもいざ海外に行くとなると楽しくはなるもので、最初のひと月辺りはウキウキで毎日を過ごしていたような記憶があります。留学を始めて間もない頃は英単語を絞り出すのに必死だったのが、まあ慣れというものは生まれるらしく徐々に会話もできるようになっていきました。留学の主目的とそれに関する僕の話なんてのは特に特徴的な部分はなかったように思います。

サバイバルと銘打ちましたが、僕の高校が用意した留学生活は縛りプレイです。「電子機器持ち込み禁止」「親とのやり取りは手紙以外禁止」「SNS使用禁止」「上記発覚時は強制帰国」大まかに言えばここら辺でしょうか。例外的に許されていた電子辞書と読書機能以外付いていない(重いブラウザはついていたが)Kindleだけで1年弱を過ごさなくてはいけませんでした。事前に口酸っぱく言われていましたが実際に生活をすると非常に厳しいものがあります。現地の学校での遊びの約束やら待ち合わせ時の連絡は支給されたちゃっちい携帯電話(ガラケーです)でしかできません。Snapchatやらカカオトーク(後者はアジア人系の留学生がよく使っていた)全盛の現地でその縛りを持った人間が入るのはなかなかに難しいものがありました。授業とかで一緒になって話す分にはいいのですがそれ以降の予定なんてのはたまに作るくらいのもので他の大半は1人でチャリンコで走ったり(チャリパクをされて警察に駆け込むも警察が営業時間終了していた事件なんてのもあったな)するくらいしかなく極端に日常の娯楽が少なかったのです。僕に与えられたのは広大が過ぎる自然と長すぎる時間のみです。「暇だな〜考え事をするか」なんてリアルでやることがあるとは思いませんでした。母国語話者が周りにほとんど居ないため人との意思疎通が完全でもなく、また高校1年生の状態を引きずって留学に来た僕に考え事をさせるとどうなるのかは想像にかたくないと思います。多分僕の人間性がねじ曲がりきるには十分すぎる機会だったのだと思います。あれやこれや考えました。日本にいた頃の色々な嫌な思い出やらなにやらを16か17の人間が一人で考え込むとそりゃ変な価値観になる。価値観形成に重要な時期に周りと適切なコミュニケーションが取れないことの弊害がモロに価値観に出たのが僕なのかなと勝手に考えています。

 

  • 実生活

ちなみにホストマザーと死ぬほど仲が悪かったです。帰国時空港に送って貰う時に基本みんな涙ぐみながらハグしてるみたいな光景が散見されましたが涙の一滴もなく握手だけで別れました。多分俺がインドア派なのが気に食わなかったのと死ぬほど片付けをしない人間だったのが癪だったんだと思います。

留学生活前半は多少ルールも守って生活してましたが、最終的に僕はKindle2ちゃんねるを見てホストファミリーが寝静まったらパソコンをいじり学校のパソコンの授業でも日本のサイトを見たりと割とやりたい放題やってました。やりたい放題やっても許される環境であったというのも一因だと思います。留学生は基本的にテストとかを要求されなかったし、色んなことを見て欲しいくらいのスタンスだったというのもあります。

ホストファミリーには別荘があり、その別荘にあるボートで海釣りをしてサメを釣ったりしました。あとそこにブタがいて可愛くてしょうがなかったのでめちゃくちゃダル絡みをしていたら2匹いた片方が病気で射殺されたのをあとから聞かされて悲しかったです。

その別荘でトラックの荷台に乗ってたら振り落とされて骨折しました。海外で始めて人生で1番大きなケガをやるとは思いませんでした。

正直実生活部分に関しては結構楽しくやってました。拙いながらにコミュニケーションを取り色んなことをさせてもらったような気はしてます。人生で始めて酒を飲んだのもホストファミリーの別荘だっけかな。

学校も授業で喋り相手には困らなかったしキャンプで無人島に宿泊して凍えた翌日アスレチックをやるとか色んなことしました。アウトドアアクティビティで社会性を学ぼう的なスタンスでキャンプイベントをやってるらしいです。

昼飯の時間はタイ人のオタクにスマホで神風特攻隊の動画を見せられて「Oh〜his sacrifice!!!」と熱弁されていました。日本の文化に興味があるというか普通にオタクコンテンツのタイ語版を履修してるやつだったので打ち解けるのに苦はなく、めちゃくちゃ仲良くしてました。海外の人でオタクコンテンツに興味があるなんて正直愛国心がバグったオタクの妄想だと思っていましたが、そいつはテンプレみたいに日本のオタクコンテンツに興味を示していて逆に面白かったです。そいつが旅行で日本に来た時秋葉原のプラモデルショップを案内したら大喜びしてました。

ホストブラザーが自宅でホームパーティーをたまに開いたりしてたのでホストブラザー(2個上)周りの人ともちょくちょく顔を合わせたりしてました。思えば色んな人と会ったような気がします。

全ての物が日本と切り離されていたからこそ日本にいる時のような陰鬱な感じもなく楽しめたのかもしれません。

 

現地校留学生としての生活終盤の記憶

 

  • 学校と学校

数日間ホストファミリーが旅行に行き僕を連れて行けないということで現地校の留学生担当の教員の家で2日か3日くらい過ごした時がありました。パソコン付きの部屋を用意され浮かれながら夕飯を食べている時にその先生にすごく真剣に僕の高校の話をされました(留学生なので基本聞く側)。あなたの高校の親と子を引き離すポリシーは間違えていると思う。親も子も可哀想だ。来年以降はあなたの高校からうちの高校への留学は受け入れないけれどあなたのせいではないよ。みたいな話だったような気がします。死ぬほど救いになりましたね。学校のスタンスに対して「ここがこう間違っていてこうなっている」と考えさせてくれるきっかけをその先生に与えられたと考えています。これ以降の高校生活で自分の高校のここが間違っていると気づかずに盲目的に自分の高校の教育を受けていたら今頃僕はどうなっていたことか分かりません。また、僕は2つの高校を体験した稀な例であるということを念頭に置いたうえでその比較から考えることを教えてくれたとも思っています。こればかりは感謝をしているつもりです。

 

  • 日本人留学生

周りには1桁人日本人がいました。うち男子は2人(僕を除いて)だけでしたが、ここであることに気づかされました。ここにいる日本人全員人付き合いの感じが変だと。日本人の人たちと話していくうちにわかったのが、彼らは日本にいる時に不登校とかなんかしらのトラブルになった人が多いということです。帰国後に分かったのですが、海外に2年以上いると言語習得状況の如何に関わらず帰国子女枠で入試を受けることができるようになるそうです。こう言いきってしまうのは非常に偉そうで自分でも嫌なのですが、「そんな留学の使い方もされているのか」と当時感心してました。その片割れの男子(5コ下の歳だったかな)とは少し仲良くしてました。癖の塊のようなやつで(前の学校でなんかやらかして転校させられたとか)退屈しなかったです。そんな彼に言われた一言が今も僕に突き刺さっています。「お前人の事情に突っ込まないのいいよな」というニュアンスの言葉です。この言葉は当時自分にとっては人生で受け取った数少ない褒め言葉かつコミュニケーションの取り方の評価として受け取っていました。しかし、この言葉は大学四年生になった今の僕には刃物のように突き刺さっています。この言葉は裏を返せば「他人に関心がない」とも捉えられるのです。考え込まざるをえませんよね。こういう言葉。こんな重い一撃も食らったりしてました。

 

  • さらば海外のド田舎

タイ人のオタクやホストブラザー(ドラッグやってた)、元英国海軍のホストファミリーのおじさんとかとメインで仲良くしてた現地校留学生活も終え僕はその後の留学生活に向かいました。僕の中でここまでの留学生活は色んな経験と体験をさせてくれたものとして鮮やかに彩られています。縛りプレイなりに楽しんだつもりです。

 

地獄の始まり

 

  • 最終処分場

留学生活を経て物事を(良くも悪くも)考え込む人間となった僕は南半球の辺境での生活を終え留学生活最後のひと月は高校の同級生たちと合流し数週間見学系の研修をしたあとフィリピンで語学研修を受ける運びになっていました。

同じように現地校で留学生活をしていた同級生たちがどのような人間になったのかなと期待した僕はあまりにも現実に期待をしすぎていました。男も女も海外にかぶれ日常生活でも日本語に英語の習いたてのスラングを混ぜる滑稽な姿に当時の僕はめまいがしていました。もっとこう、考えることとかなかったのか?人としての成長とかないのか?と疑問を覚えたりもしましたが僕は大きな間違いに気づきます。そもそも僕のように面倒くさい考え事をするようなタイプは留学には行かないということに。海外に行って海外の価値観をインストールしてその価値観をブンブンに振りまく同級生が普通であり、今まで感じたことと海外で感じたことを闇鍋の如く混ぜたダークマターのような思考回路をしている僕が異常なのです。こうして出国前よりも数段頭が悪くなった(お勉強の話ではなく人として)ように見える同級生たちと研修を受けることになったのです。

前の記事で書いた通り僕には数名のよく絡むやつが高校の同級生でいました。そいつらと過ごせばいいじゃないかと思っていましたが悪いことは重なります。管理的なアレで学年をクラス関係なしに真っ二つに分けられた時に僕一人だけと他のやつらみたいな感じになったのです。この時点で現地校生活9ヶ月の間に休まされたはずの僕のメンタルは粉砕されました。僕がいたグループにいた(女子は絡まないのではなからカウントしていません)のは八割のウェイ系の男子だけでなく、男女問わず嫌われていた数名のやつがいました。僕の高校の同級生のウェイは当時非常に排他的だったので嫌われてたやつは八割のウェイ以外の人と絡むようになります。対象として残されていたのは俺だけだったのです。話せばそいつの嫌われる理由なんてのは分かるし、嫌なところがダイレクトに僕に襲いかかってきます。毎日本当にストレスが溜まりました。「これじゃ俺はまるで最終処分場だ」なんて思っていました。しかし、高校入学後理由もなく拒絶されたことのある人間が自分に好意的な人間を拒絶する勇気なんて生まれるわけもありません。そいつからのダイレクトなストレスと自分自身の葛藤のストレスでその時期はブルーになっていました。もう1人好意的に僕に絡んできた嫌われ者は前者とは違い女の子に告白してフラれてそこから男女共々から陰口を叩かれるようになったみたいな嫌われ方でした。そいつとひたすら傷を舐めあっていたのを覚えています。余談ですがそいつに淫夢ネタを教えたらホモガキになって高校3年で悲惨な感じになってました。

 

  • "異常"

既に地獄のような生活に変化してからしばらく後、フィリピンの語学研修施設でひたすら資格試験の勉強をする研修生活をひと月過ごすことになりました。上記のグループ分けは変わらなかったものの、施設の近くのホテルではほかの部屋に行ったりして別グループのやつと交流が取れるようになりました。

しかし、本当の苦しみはここからでした。

毎日ひたすら勉強して朝は早く起き遅刻したら衆目に晒されながらの部屋連帯責任制の怒られが発生するなど基本的な生活がまずシビアでした。そこは僕の高校がなんとなく軍隊的な厳しさの体育会系を目指していたところから察しはついていました。

与えられた条件を振り返ってみましょう。僕らの生活は研修施設とホテルの往復のみです。また、研修の授業時間以外は自習時間になっています。そして集められた同級生たちは数段頭が悪くなっています。何が起こるのか答えはひとつ、色恋沙汰です。

自習時間に大きめのテーブルでは男女入り交じり会話したりするくらいなら別に僕も気に留めはしませんし口を出すことも無いでしょう。明らかに雰囲気が異常でした。サカリがついた猿と言いましょうか。ひと月の研修の間で10近くカップルが誕生し別れみたいな状況が生まれていました。研修施設のマンツーマン用の部屋で男女が2人で入っていたりもしてたな。挙句の果てにはホテルの同室の同級生が俺らの部屋に女の子を入れてベッドで一緒に座って話したりしてました。上記の後者の嫌われてたやつと同室だった俺は2人で研修施設でもホテルでも傷を舐めあっていたように思います。その嫌われてたやつが上記の連れ込まれた女の子が連れ込んだ男とトイレでチョメチョメしてるのを見かけたみたいな話も聞きましたね。学年全体が性欲の猿みたいになってしまった状態、怖くないですか?思春期が甘酸っぱいみたいな話をされるとこの時期のことを思い出してしまってゲンナリすることもたまにあります。そういったものへの憧れとかコンプレックスとかの感情は生まれず、密閉され男女が同じ屋根の下にいると人はこうなるのかという現実を目の当たりにした恐怖のような感情に支配されていました。

ブレイクしたメンタルと異常になった同級生への恐怖と共に研修生活を送っていたら、ある日俺が仲が良かった同級生たちのうち2人が自習時間に女子とそこそこ狭い部屋で密着して勉強していました。当時信頼していた同級生たちが"異常になった雰囲気に巻き込まれた"ように感じてめちゃくちゃショックを受けたのを覚えています。研修のストレスと異常な雰囲気の同級生たちへの恐怖、蝕まれた仲のいい同級生たちの姿で僕は完膚なきまでにぶっ壊れました。僕もおかしくなったのでしょう。研修施設の人がいない廊下で声を上げて号泣しました。酒に酔って泣いたのをカウントしなければ俺が悲しくて泣いたのは多分この時が最後だと思います。心配して来た上記の仲が良かった同級生たちに「行かないでくれ…」と言ったのだけ覚えています。書いてて笑っちゃうくらいメンタルブレイクしていたんだろう。ぶっ壊れた俺を見て目を覚ましたのかその後は女子とも普通の絡み方をしていたように思います。

当時の僕にその同級生とも縁を切ることになると伝えたらどうなっていたか悪戯心で知りたくなりますね。

 

地獄そのものの研修を終えた僕は日本に帰ってきました。僕が留学してる間に僕の家族が1人増えていました。犬です。長男が留学してる間に犬を飼う家があるかいとツッコミを入れましたが今や僕は犬にゾッコンです。また僕が日本にいない時に消費税が増税されていて、自販機の価格が変わってたことに驚いてました。1年弱国を離れると色々なことが起こっているねということをよく色々な人に話をしてました。

 

3年生編であまり書くことがない(むしろ2年生編が多すぎた)ので2年生の帰国後の話は次の記事でしようと思います。もう五、六年前の話なので記憶違いとかもあるかもしれないですが留学生活のビビッドな話だけを書きなぐりました。真偽を確かめる相手もいないし問われもしないだろうけど昔の記憶がアテになるのか不安になりつつ筆を置きます

忍びがたきを忍び耐え難きを耐え-1年生編-

先日咳が酷くなり医者でレントゲンを撮ったら気管支が腫れていると言われました。腰、肺がイカれ髪も後退しつつある満身創痍のalpconです。

人が生きる上で価値観が完成されるのは高校生あたりだとよく言われます。酸いも甘いも噛み分け大人に向けての階段を一歩一歩登るべく用意された年代、思春期の後半当たりが高校生活にあたると考えています。そんな高校生活の環境がいささかハードで、また既にひねくれた人格を有した人物が何を考えどう過ごしてきたかを振り返る記事になっています。

 

 

長くなるので高校一年生編、二年制編、三年生とその後編に分けて書こうと思います。どうかお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

入学、そして絶望

別の記事でも話はしましたが、僕は中高大一貫校に中学受験で合格し入学し生活をしていました。しかし、あまりに勉強をしなかったため成績の基準が足りず中学から高校への進学が出来ませんでした。中高一貫校の教育の過程にいた僕に高校受験の学力があるはずもなく、限られた選択肢の中で入れそうな高校を選ぶしかありませんでした。その中で僕が選んだ高校は名前は伏せますがベンチャー系/国際色強めの高校でした。特徴的なのは高校二年生の時に1年間留学をさせる点です。1年間と言っても10ヶ月程ですが長期間海外にいるという経験はなかなか得られるものではなく、どうせ追い出されるならそんなところでもアリかとドロップアウトの悲しみの中決め受験をし合格しました。周りは中高一貫でそのまま同じメンバー(高入生はいるが)とやっていくのに僕と他若干名はスゴスゴとエスカレーターから降ろされた訳です。

 

望んでいない高校への入学と新環境という時点で入学初期の僕は打ちのめされていました。同級生はクセ者揃いで尖っている(そりゃそうだ、こんな特色の学校だ)ような環境で生活を始めるも、試練はすぐに訪れます。未だにその理由は分かりませんが、同じクラスのヤツに酷く嫌われました。面と向かって「お前とは話したくない」って入学初期で言いますかね?そんなこともあるのかと当時の僕は逆に呆気にとられていた記憶があります。仕方がない、C組(僕のクラスです)に関しては半分人間関係を諦めようと割り切り1年生初期はA組の連中と休み時間を過ごしていました。この時点で僕には華やかな高校生活への諦めが生まれ、開き直り始めたような感じがありました。というか、卑屈になっていました。数少ない自分のクラスで仲良くなった連中と飯に行った時、「お前はいつも自虐をしている」と言われたのをよく覚えています。持論ですが、人は今ある自分の状態を正当化したがるものだと思っています。ドロップアウトし高校生活のスタートダッシュからコケた僕の自己肯定感の低さを正当化出来るのは自分を客観視し第三者視点で自分を貶める事だけです。「自信を持てよ」という人からの言葉に莫大なモヤモヤを感じながら生活していました。

この高校、おかしいぞ

高校生活を彩るものとして部活動があると思います。想像ですが。

高校二年生で留学をすることになっていた僕らは部活に入る人はほとんど居ませんでした。そのため、学年のほとんどが帰宅部という状態になっています。僕もそうでした。

部活のない高校生活か、と鼻で笑う余裕も無く高校の厳しさが押し寄せてくることになります。まず持って登校時間が早い。8:00登校です。朝会的なイベントを毎日やるために8時登校になっており、遅刻するとホールの後ろで立たされるシステムでした。僕の家は神奈川、高校は東京となると毎朝6時起きが要求されます。行きの電車で寝ればいいと安易なことを考えるかもしれませんが僕の使っている路線は首都圏でも指折りの混雑路線です。座れるはずもありません。授業中は寝て過ごしました。陰キャあるある〜w寝たフリ〜wとかほざく余裕はありません。頭をガクガク揺らしながら寝ては怒られる生活でした。「○○(僕の名前)〜起きろ〜」を聞かない日は恐らく冗談抜きで無かったと思います。

また、何故かは知りませんが僕の高校に終了時間の概念はありませんでした。なにかにかこつけて6限後に集会を行い色々な話をされたり(寝ていましたが)、外部から講師が呼ばれて話がされたり(寝ていましたが)していました。3時半に学校が終わったことなんてほとんどなかったと思います。放課後には小テストの居残りだったり宿題をやっていないとかなんとかで居残りになったりしていて部活をやっていた人と帰る時間がほとんど変わらなかったです。そして家に帰る電車は爆睡して帰りました。幾度となく寝過ごし終着駅で目を覚ました高校一年生でした。

こんな生活を年がら年中続けていたので無気力というかひたすら疲弊していたような記憶になっています。遠いのは自己責任というか仕方ないといえ、その他の部分の高校による弊害が多すぎて高校一年生の時何をして遊んだかに関する記憶がほぼありません。当時の僕は毎日学校に行くことに必死だったのでしょう。今考えれば気の狂った生活だと思います。

 

高校でのイベントごとでの僕

僕の高校の体育祭は5月だったか6月に行われるものでした。入学当初右も左も分からぬ状態で割とすぐに体育祭に望むことになりますね。僕の高校は留学に行く国がラグビーで有名な某国であったため、国際理解という大義名分のもと、体育祭では民族舞踊(ラグビーの試合でやってるアレです)を学校全員でやる"伝統"でした。「そんなものがあるのか〜」くらいの温度感だった僕を待ち受けているのは3年生の先輩です。人となりも分からぬ3年生の先輩はその民族舞踊に命というか高校生活全てをかけているような様子でした。1年生の僕はその民族舞踊を見たところ「俺がこれをやるのは滑稽だな」と気が重かったです。しかし3年生はやる気がない1年生を集め凄い剣幕でやる気を出すよう要求してきます。頭の中がクエスチョンマークで満たされた状態で骨と皮だけのナヨナヨの僕はそれをやらされていました。なんで周りはこの状況に疑問を抱かないんだろう、これがどういうわけあってこの学校10年の薄っぺらい伝統とやらになったのだろうという疑問は解決されることも無く本番と体育祭は終わりました。学校に振り回されることを覚悟した矢先に生徒にも振り回され、いよいよ先が見えなくなってきます。当時の僕は「早く留学に行かせてこの監獄から出してくれ」という感情で満たされていました。 

 

文化祭もありました。しかしながら部活にも入っておらず、点呼を取ったあと自由行動と言われた僕は文化祭を5分で退出し昼間の空いている時間にゲームセンターでリフレクビートをして帰って寝ました。

 

人との関係

初っ端に嫌われなかった数名のグループで高校生活は全般過ごしました。比較的まともだったやつと痛いやつ、学習障害ボーダースレスレのやつと勉強だけは凄いやつの僕の5人でした。教室にいてもろくなことがないということでそのメンツで校舎の離れたところで飯を食って過ごしていました。当時の僕はバラバラなそんなメンバーの個性を楽しんでいたように思います。

痛いやつと帰り道の方向が同じだったので、よく一緒に帰っていました。学校が終わったあと彼と一緒に帰る時、彼がイヤホンをつけてるのを見つかり(登下校時携帯使用禁止だったんです)僕も巻き添えで怒られたことがありました。なんで巻き添えで怒られるんだ、と思いながら説教をされていたところ、「あいつの事を友達と思っているならなんで止めないんだよ」と詰められました。当時の僕は何故かこの発言でスイッチが入ってしまい、「…彼が僕のことを友達と思っているかは分かりませんけどね」と教師に言い放ったところ、教師が文字通り顔を真っ赤にして「じゃあもう帰れよ!俺の前にいるな!」みたいなことを怒鳴り散らしてきたというイベントがありました。その話は当の彼とは笑い話にしていましたが、そこそこの剣幕で教師に詰められてる時にそんなことを言い放つ当時の僕は本当に高校生活を迷走していたと今になって思います。

 

そいつはたまたま僕と同じゲームをやった事があるという話で個人的にすごく嬉しかったのでオタク・早口でそのゲームの話をよくしました。リフレクビートですね。しかし、彼はちょいちょい自分の実力を詐称して語っていたことにある時気づき(確か対戦モード的なので対戦して明らかに語っていた実力より下だった)コイツさては虚言癖があるなと気づきました。ある時解禁情報がやっと出回ったくらいの相当金を詰まないと出来ない曲についての話を振ってみたところ、「ああ、アレね、余裕だった」と言われまして。人生で初めて人にカマをかけたら引っかかるという地獄のような経験を当時仲がいいと思ってた人で体験してしまいました。なかなかに悲しかったです。

 

この高校の別のクラスには僕の母親の友達の娘が潜伏していました。その子に小テストの成績を親経由でチクられてマジで憤慨してたのもよく覚えています。

 

さらば日本

大きなライフイベントもなく1年生の1月末になり、留学に出発することになりました。正直僕は高校が嫌すぎたので留学は普通に楽しみでしたし、英語も慣れるだろうと勝手に余裕ぶってました。余裕綽々でパッキングをし、出国直前に"THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ"を観てから出国しました。

 

高校二年生編へ続く

 

 

陰茎譚

ここ数日いくら寝ても疲れが取れません。老化でしょうか。1番好きな寿司のネタはえんがわのalpcon(あるこん)です。

当ブログでは比較的重めな話ばかりを扱うように思われそうですが当時の僕がとても苦しんだ結果今楽になった経験についてを記したいと思います。この話はTwitterでよく質問される話なのでTwitterに書いたことと内容が重複しますが人生の振り返りと覚え書きを兼ねた内容にしたいと考えています。

 

プロローグ

皆様はちんちんをお持ちでしょうか。恐らく男性の場合は大多数の方がぶら下げて生活しているものだと思います。下ネタの題材として多用され、大抵の場合これを言っておけば場が丸くなるような側面も持ち合わせています。もちろん生殖器としての機能もありますがこのようなインターネットの場末に来るような方々に使い道があるとはあまり思えません。そんなちんちんに関する僕のビビッドな記憶の話です。

 

包茎

よほど閉鎖的な環境に育っていない限りはちんちんの形状に関しては存じ上げている事だと思います。ちんちんを広義に捉えると金玉と竿の2パーツで形成されていて、成人男性の陰茎は図のようになっています。
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ここで分かると思いますが、竿の部分に皮がありますね?そうです。陰茎には包皮というものがあり、僕の類推ですが本体を守っているのでしょう。剣には収まる鞘があるということです。

男性諸君にはこの鞘について非常に悩まされている人がいると思います。僕もかつてはそうでした。鞘に剣が収まっている状態の事は「包茎」と呼ばれ現代日本ではそれは恥とされています。包茎が恥とされているのは包茎治療ビジネスを定着させるために流布された風説だという説や現代に僅かに残っている割礼儀式の文化など、色々な側面から包皮がむけていることが必要事項であるとされているためだからだと勝手に考えています。どうでもいいか

包茎には2種類あり鞘から抜剣することが出来ない状態を真性包茎、剣が覚醒した時(勃起です)鞘からその姿をあらわす状態が仮性包茎であるとされています(不安なので医療方面の知識がある方は指摘してください)。僕は小学生くらいの頃親にぼんやりと「ちんちんの皮はむけるようにしときなさいよ〜」と言われて育ってはいましたが、皮をむく必要性を感じなかったし性の目覚めすら訪れていないalpcon少年に陰茎の形状に関して恥じる由もなかったわけです。しかし、中学校入学後ぼんやりと性の知識が流入し性行為の何たるかを知ったり女性視点での男性器に関する理想(と言っても中学生の妄想レベルだけど)など少年から青年への過渡期にさしかかる僕にオーバーフロー気味な知識が流入した結果、「ちんちんの皮剥けてないの、まずくね?」という結論に至りました。その件に関してたまに親に「あんた最近皮むいてる?ヤバいよ」と言われていた僕はぼんやりと何とかしないといけないな、と思い親同伴で泌尿器科に行きました。

 

発覚

泌尿器科で僕のちんちんについて調べてもらったところ厄介なことが判明しました。簡潔に言うと僕のちんちんは「長期間包茎状態であったため包皮と本体が癒着している状態」であると告げられました。わかりにくいと思うので図解しておきます。


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長年皮を被っていたせいで溜まった老廃物(チンカスの事です。)によって包皮と本体が癒着しているため図の斜線部分に関してはほぼ皮と本体が一体化している事になります。このままこの状態を放置しているとどうなるのかは男性諸君は想像に難くないでしょう。勃起した時に癒着エリアが引っ張られ皮が大変な事になるか、曲がって伸びた塔がポッキリ折れる事態が予想されます。いずれにせよまずい状態ということは伝わると思います。次回来院時に施術しましょうねと医者に言われたような、そんなことも言われなかったような朧気な感じで病院を後にし当時の僕は「俺のちんちんこんなことになってたのか〜」とヘラヘラしていました。事の重大さは今なら分かりますが当時中学一年生、小学生とほとんど変わらないような風体と中身の僕には全く理解ができていませんでした。

 

裁きの刻(とき)は突然に

12月のあの日、僕は珍しく平日に学校が休みだったので中学の友達をはるばる地元藤が丘の自宅に招いて遊んでいました。夕方になり友達を駅まで送ったあと携帯電話(僕が中学一年生の頃はスマートフォンは流通してませんでした)で母親に「家の近くの角で合流しよう」と言われました。なんの事やら分からずとりあえず母と合流し歩いていると向かう先は泌尿器科でした。あ、この間のアレの処置をするんだ〜と納得した僕はなんの疑いもなく医者の前の椅子に座り話を聞きました。待て、様子がおかしい。後ろに人が沢山いるぞ。そんなことを思いながら話を聞いたところ施術方法の説明をされました。力こそパワー。そうです。上記の図の状態の僕の陰茎を力ずくでひん剥くそうなのです。これはいけない。

 

手術台のようなベッドに横になりズボンとパンツを脱がされる若かりしalpcon。彼の目に映るのは6人の看護婦/看護士の顔です。6人体制で四肢に飽き足らず肩と腰を抑えられ抵抗が出来なくなる僕は恐怖に慄くことしか出来ません。医者がやって来て僕の陰茎に裁きを下します。背負う原罪が重過ぎやしないだろうか。声変わりもまだだったalpcon少年のつんざくような甲高い悲鳴が泌尿器科にこだましました。

 

防衛本能というのは非常によく出来ているもので、6人体制で抑えられていた中で感じた激痛から脱するべく本来考えられないような力が入っていたらしく翌日全身が筋肉痛になりました。

また、この光景を見ていた母親がショックで貧血を起こして倒れました。僕のちんちんからは血が出ていたらしく、息子が悲鳴を上げながら流血をしているとなるとショックなのが母親という生き物の性なのかなと思いました。

 

苦難と収束

急に訪れた惨劇の後僕はちんちんに包帯を巻かれ、未発達の皮膚(癒着部分は長年癒着していたので皮膚が薄い)に塗る軟膏を処方され命からがら家に着きました。

一瞬の苦しみで物事が片付くほど世の中は上手くできていません。ちんちんというのはその必要性を問わずして股にぶら下がっているものです。股というのは生活の全シーンにおいて足に触れています。そうです。歩く度ちんちんが痛むのです。火傷跡のような皮膚が包帯越しでも擦れれば痛いに決まっている。術後2週間は歩くのが大変でした。放尿然りです。男性用小便器は砲を出す時にあちらこちらに皮膚が擦れるので到底使えたものではありませんでした。今考えると恐ろしい生活をしていたと思います。あの時期は。

術後僕には1つ宿題が残っていました。泌尿器科からの。癒着の原因となった老廃物(チンカスのことです。)の除去です。

これが術後一番の激痛でした。なぜなら未発達の皮膚からチンカスを擦り取らないといけないからです。量の話で言うと「寿司用の小袋のワサビ」ひと袋よりは量が多かったです。綿棒を使って地獄のような痛みに耐えながらチンカスを除去している時のalpconには包茎に対する羞恥心やアドバイスに従わなかった後悔なんてものはなく、ただただ現状からの解放を祈っていました。

 

2週間くらいすると痛みは引き、僕は普通のちんちんを持ちし者として生活を始めました。人に見せることもない、そして本来の用途で使うことも無い体のパーツの変化など周りに気づかれる訳もなく平穏な日常に戻っていきました。

 

エピローグ

ちんちんの問題ってデリケートだしなかなか解決するのが難しい問題だと思います。最悪解決しなくてもまかり通ってしまうようなことでもありますし。たまたま僕は比較的早期に解決したというだけで大人になってから包茎手術に手を出す人も大勢いると聞きます。そういった人は恐らく性交渉の相手がいてその際の心配をしているのでしょう。

普段の言動から見てわかる通り僕は筋金入りの童貞です。21歳になっても性行為シーンに興奮せず女の子のおもらしで自慰に耽るような。そんな僕がこのような受難をしてまで包皮癒着由来の包茎を克服(歩いてたら勝手に剥けるし克服と言っていいでしょう)する意味は皆無です。

しかしながら天は僕を見捨てていません。最近オナホールに手を出した結果寝る前のルーチンワークの面倒な作業としてしか存在していなかった僕の孤独な性生活に彩りが与えられました。恐らく包皮の癒着状態が続いたままだとオナホールは使えなかったでしょう。こんなにもいいものなのかと感激した僕はオナホールの虜になりました。

満足感と共にオナホールを洗い終わり煙草の紫煙の中で今ある自分のちんちんにささやかな有難みを感じ僕は目を閉じるのでありました。

 

陰茎譚 -完-

 

 

昔僕は楽器をやっていた

雨の日に滑って転んで膝が非常に痛いalpconです。前回の記事が思ったより多くの人に見られていて嬉しい限りです。前回ほど感情がこもってるわけではありませんが書きたくなったことがあるので書きます。例によって面白いものでもありませんが暇な時にこの乱文を一読してみてください。

 

受動的な楽器との出会い

小学生あたりの頃、学校とは別の習い事を子供にやらせる/子供がやりたがるのは比較的よくある話だと思います。僕はその前者の方で公文式のアレに通わされていました。僕は特に小学校の勉強が落ちこぼれていたわけでもありませんが非常に忘れ物が多かったりしてADHDを疑われ親と教師が結託していたようなので勉強をさせてしっかりさせたかったのでしょう。ですが僕はやれと強制されたことをやるほど偉い子ではなく、非常に抵抗して先生を困らせていたそうです。プリントを食べて抵抗していたと親から聞かされました。

そんな僕は公文式を辞め、学区内の雰囲気もあり中学受験をすることになりますがまたそれは別の話。親は俺に対して「多彩な人間になって欲しい」という願望があったらしく、俺に楽器を始めたらどうかと提案(当時の僕にとっては指示でしたが)してきました。特に断る理由もない、また特に始めるような理由もない楽器をやれという指示に僕は困惑しながらも「音程がないから」という理由でドラムを選び始めることになったのです。

 

ドラム教室に通う僕とその位置づけ

週一回のペースでドラム教室に通うことで僕はドラムを習得するという流れになりました。ですが当時の僕には「この曲を演奏したい」「こんなことをしたい」といった目標もなく、また当時スマホなどなく音楽を聴く手段も持ち得ない僕には音楽に対する興味もありませんでした。

ドラム教室は当時20代中盤くらいの先生的な人がマンツーマンでレッスンをする形で、送迎の関係もあり親が見てたりしました。この時点で僕にとってドラムというのは押し付けられた課題、そして気が進まないものとして僕の前に立ちはだかりました。初期の頃は嫌で仕方がありませんでしたし、手と足を分離して動かす感覚なんてそうそう出来ないと泣きごとを言っていたことをよく覚えています。

この勢いだと公文式の時にやったのと同じようにドラムスティックを食べて先生を困らせることになると思われそうですが、転機が訪れます。親が仕事で忙しくなりバスを使って1人でドラム教室に通うようになったのです。当時小学ウン年生の僕にとって親から解き放たれる場というのは非常に貴重で、嬉しく楽しいものでした。その結果ドラムの練習も楽しくなり、また先生とも仲良く歓談するようになるなど僕にとってのオアシスが形成されたのです。小学校6年生の頃は上記の通り受動的に始まった中学受験に忙しくなり一時的にドラムは休んでいましたが、その後中学に入っても教室には通っていました。

 

オアシス

当初目標も何も無く始めた僕でしたがなりに数曲は演奏出来るような状態にはなり、教室(小規模でしたが)生の発表会的なので演奏したりもしました。この時点で一応僕は「ドラムが叩ける」と言っていい状態だろうと当時考えていたので様々な自己紹介欄で趣味はドラムだと書いていました。体裁保てるしね。しかしながら僕にとってドラムが叩けることなんてどうでも良く、一回りいかないくらい年上のドラムの先生と自分の苦しみや楽しかったことなど色々な話が出来る空間が非常に楽しかったのです。中学校3年あたりから高校あたりの僕はどんどん落ち込む一方だったので当時の僕にとって"学校という場と全く切り離され何か要求、強要されることも無くしっかりしたコミュニケーションが取れる場"というのがどれほど救いになったか分かりません。しかしそんなドラム教室も高校1年で辞めることになってしまいます。そう、僕の高校は留学に行かせる学校だったからです。憩いの場も失い国外へと追いやられた僕は一年弱空虚な時間を過ごし日本へ帰り、そのまま大学受験という流れになりました。家に置いてある電子ドラムに厚いホコリを被せるには十分すぎる時間だったという訳です。

 

突きつけられる現実

地獄の果てのような高校生活をした僕に大学生活のビジョンはありませんでした。ただひたすら地獄から抜け出せる開放感だけを胸に大学へ入学すると、サークルという単語が飛び交っていました。どうやら"それ"に入るのが定石らしいと悟った僕に軽音楽系のサークルに入ることを判断するのは容易なことでした。今まで中学校、高校と学校関連で楽器を演奏する機会が無かった僕はやっと自分の能力が発揮出来る場所が出来たのだろうと勝手に安堵していました。

 

物事に期待をすると大抵裏切られると高校2年生の頃悟ったようなツラで考えていた僕は甘かったです。

 

サークルに入るや否や雑なイジりしかされないポジションになり当のドラムに関しても高校3年間、或いは6年間部活や学外でのバンド活動をしていた人と僕では大きな差があります。トドメに僕は努力が苦手です。努力が出来るなら中高一貫校からドロップアウトはしない。ポジションもゴミ同然、楽器もヘタクソとなると僕は沈殿物のゴミカスです。

読み返してみれば当たり前の事です。本気でやってきた人と比較したら下手くそに決まってるじゃないですか。でも僕にとってドラムって実力云々ではなく楽しいものという認識だったんですよ。上記のように僕の数少ない楽しみだった訳ですし。楽器をやる、それが楽しい。そこに間違いはないと思うのです。それが実力というスケールが否応なく加えられてしまい、僕は現実を思い知りました。

ドラムそのものだけではありません。当時バンドマンに対する印象や実体なんて微塵も知らなかった(そりゃそうだ、だって僕にとってのドラムはくっちゃべったりしながらやる物でバンドなんて組んだこと無かったわけだし)僕を待ち受けていたのは女食いに必死な男たちの姿です。恋愛以前に女叩き思想まで持ち合わせていた僕はそんな人達に溶け込めるわけもなく、また高校の頃嫌気がさして仕方なかった「女の前で豹変する男」の多さに嫌気がさしゲボのようなサークルライフを送りました。

 

さらばドラム

 

簡潔にまとめるとサークルに入ることで今までのドラムとの付き合い方を完全に否定された僕は当然モチベーションも消滅していきます。惰性で大して絡みがないサークル員とバンドを組み演奏をすることですり減る神経、ヤケクソになり飲み会では暴飲し上級生から注意をくらうなどまあまあ萎える要因も多く、1年生の年度末にサークルは辞めました。

じゃあドラムはどうするの?唯一僕が人に言える趣味だったのだろう?下手なりにもモチベーションを維持する方法もあったんじゃないの?など様々自問自答をしましたがもう無理でした。受動的に始め目標もなく、また大して音楽が好きでも無いやつがやる意味なんてありませんし、ドラムで得た楽しかった経験もズタズタに踏みにじられたように感じていた僕はスティックを再び握ろうなどとは思いませんでした。趣味というのは楽しむためのものです。僕は優劣を競われるのが嫌だし嫌な思いをしたものを再びやろうと思えるほど強くはありません。

僕の狭い部屋の一角には不自然に大きなスペースがありました。元々マットと電子ドラムが置いてあったスペースです。今僕はその電子ドラムがどこに行ったのかも知りません。捨てられたのでしょうか。それとも弟の部屋の物干し竿になっているのでしょうか。調べようとも思いません。そのスペースは今R-18同人誌と音ゲーのコントローラーが置いてある棚が置いてあります。

 

さいごに

僕のように向上心のない人が何となく新しい物事を始めても絶対に続かないと思います。

しかしながら僕は教室の先生との楽しかった経験により幸か不幸か続いてしまい、ある程度やった実績を作ってしまったため付け上がってしまったのでしょう。

僕は人前に出て何かをするような趣味は絶対に始めないと誓いました。人に見られる以上何かの間違いで楽しさを感じても優劣を判断されるのならば。こう考えることが僕の中高生時代の楽しかったドラム経験への何よりの弔いになるのだと考えています。