何故文を書くのか

寝ても寝ても疲れが取れず、寝すぎてまた生活リズムが崩れ疲れが溜まっています。最近フォロワーに本気で体調を心配されるalpcon(あるこん)です。

開設時にも申し上げたとおり僕はこのブログを開設する前にもブログを書いていました。IDとPwを忘れてインターネットデブリと化しましたが。ここから分かる通り僕はブログを書くこと、ひいては文章を書くことが好きなのかも知れません。その事についてひとつ、考えていこうと思います。

"書かされる文"

幼稚園の時とかから文章を書くことが好きだったのかと言われるとそれは分からない、と言うより多分不可能でしょう。読み書きが不完全なのですから。幼稚園の時は絵日記を書いていたようで、見返すと文章より絵の方が量が多いレベルでした。 小学校の時文章を書くのは専ら小学校の宿題やらなんやらで読書感想文だったり学校行事の感想だったりと、"与えられたお題に対しての感想"を書かされるものでした。多分めちゃくちゃ嫌がっていたと思います。なぜなら提出を求められる時点で好き勝手に書くことが出来ないからです。当たり前だ。 中学校に関しては文章を長く書いた記憶がありません。真面目にやっていなかったからなんでしょうが。

高校の時、恐らく人生最長の文を書きました。反省文です。なんの反省だったのかも思い出せませんが、別記事で滔々と語った通り異常だった高校から何かのヤラカシに対して原稿用紙20枚分の反省文を書くよう求められたのです。学校が処分ではなく反省をさせるような事というのは決まってしょうもない事なので20枚も書く内容なんてありません。100枚書かされていたヤツもいましたが反省文では書くことがあまりにもないので人生に対する振り返りをするしかないのです。僕は○○時代に△△をした、△△の時こういうことをしたのは僕がこう考えていたからでそれが今の自分の体たらくに繋がった、みたいなことを永遠と書くのが反省文の定石でした。今考えればこの方法、人のメンタルを的確に削る方法ですよね。お前はこういうことがダメだというのを自分の人生全体から自力で探し出しそれを文章として書かせて提出させる訳ですから。まあ当時そんな所まで考えは及んでいませんでしたが。

このように文章を書くのは(高校の時の僕の例は極端だとして)普通あまり進んでやるものではないものだと皆さんも認識してると思います。ほんとか?

ではなぜ文章を、それもインターネットに

僕は文章を読むのが苦手です。文章を読むのが苦痛過ぎて定価で買ったエロゲを超序盤で放置するレベルです。そんな僕はなぜ文章を書くようになったのか。

ご存知かどうかは分かりませんが、僕は非常にめんどくさい人間です。めんどくさがり屋じゃなくめんどくさい人間です。何が、というと一々考え込むところです。起きた出来事や今日あった印象深い出来事、また過去の自分の出来事全てに関して恐らく永遠に考え続けてるタイプの人間です。こと自分の失敗においては永遠に考える、と言うより後悔し続けている人です。 人が物を考えると当然ですが善し悪しを問わず着地点、結論がどこかで出ます。そしてそこに至るまでの思考回路、過程というものも存在するはずです。僕はこう考えたからこうだと判断してる、という話をいちいち覚えていられるかと問われると微妙だと思います。人の考えなんて常日頃色々なものに接して変わっていくものです。それを咎めてはいけないと思います。ただ僕はその時々僕がどういう考えでこういう思考に至ったのかを覚えておくとまではいかなくとも知っておきたいのです。備忘録とでも言うべきでしょうか。文章という形で残すのが最適だろうと僕は考えブログを書くことにしたのです。

ほぼ個人ブログのように使われているTwitterを使っておきながらブログを書く理由は?思考の過程と結論を記すならTwitterでもいいじゃないか、と言われるかもしれません。が、まともなTwitterの使い方をしている人であれば僕が他記事で記しているようなめんどくさい思考回路をいちいちTwitterに記していると客観的に心底印象が悪いのは分かると思います。揚げ足取りとマウンティングが盛んなTwitterで個人の考えを記し茶化されるくらいならブログの方がいいのは自明でしょう。

このように考え僕はブログを書くことにしました。

自分の考えを書く意義

備忘録と称し自分の考えをつらつらと書くことにしたのですが、非常に筆が乗ります。思った以上に適性があったようです。

先代ブログ(IDpass紛失)は近況を不定期で書いていました。が、近況と言ってもその近辺の時期に起こった出来事に対してウダウダと自分の考えを語る感じで書いていました。今とは少し毛色が違いますね。

ある特定の出来事に対しての考えを語るようになったのは最近の話になります。 じゃあなぜ僕はこうインターネットの辺境で他人に見えるように語っているのでしょうか。 同じように過ごし、同じようなことをした人がいたとしてもその人の思考回路というのが自分と全く同じである可能性というのは極めて低いです。同じ結論が出ていてもその人と自分では考えの過程が違うものだと思います。人の思考を自分の中で再現するのは不可能でしょう。そんな時に人が自分の思考回路について記した文章があったとしたらどうでしょうか。この場合に限り人の思考の追体験が出来ることになるのです。他人と自分が融合することは不可能ですがその内面を僅かでも覗き見ることを出来る機会が作れるとしたら、それは記された人の考えを読むことなのです。講釈を垂れていますが僕はこう考えています。

じゃあ「全世界よ、俺の考えを見てくれ」と言っているのかというと首を縦には振れません。しかし、Twitterというライトなコミュニケーションの場を離れインターネットの辺境たるこのブログにまで来るような人であれば多少自分の考えを見て何かを感じてくれるのではないのかな、と勝手に期待しています。 内容については正直どうでもいいのです。薄っぺらい人生と人として矮小な器をひけらかし自虐と懺悔をしたいのなら犬にでも語っていればいい。僕は考えを述べることで人に何か考えるきっかけを与えることができたら幸いだな、などと考えています。僕自身が考える人間だからそうなのかもしれませんが、やっぱりものを見てすぐに結論を出すのはもったいないと思っています。僕の考えを見てめんどくさいヤツだなと思うのは正しいしほとんどの人間はそう結論づけ僕に踏み込んでは来ませんでした。あさましく押し付けがましい願望であることは分かってはいますがやっぱり何かを見たらすぐ飲み込むのではなく反芻して欲しい、なんてよく思ってます。僕の考え込んでる時間というのはその反芻を行ってるわけですがその時間が無駄であるとは決して僕は思っていません。多分人ってそうやって色々と学んでいくんだと思います。

さいごに

僕の考えの追体験、などと言いましたが僕は他の人の考えも知りたいです。 自分語りというワードで人の語り口に封をされることになってしまっている昨今のインターネットに抗い、僕は色んな人の"語り"が聞きたいです。僕だって色々な人の思考を追体験したいです。多分面白いじゃん? インプットされたものをそのままアウトプットするだけでなく、その間にワンクッション置いて何をどう考えたのかという語りが僕は聞きたいです。本来人と人のコミュニケーションってそういうものだと思います。主語が大きすぎたか。多分僕はそういうコミュニケーションを望んでいたのにそれが出来ないからこんな所で一方的に吠えているのでしょう。たまにはそんなめんどくさいコミュニケーション、してみてはどうでしょうか。