"嫌"

ここのところ気圧の変化による頭痛に苦しめられています。偏頭痛と腰痛持ちのalpconです。 別にそうしてるつもりはありませんが、だんだんこうして書く文章も踏み込んだ内容になっていくような気がしています。自分の過去の経験なんてのは話すだけなので楽ですがそうでない内容に手を出すとなると僕の内面をさらけ出すことになり怖いようなそうでないような不思議な感覚になります。

抽象的な話にはなりますが嫌なことっていっぱいありますよね。生きてればいっぱいあります。そんなことは。細かいところから大きいところまで。そんな話をしていこうと思います。

嫌と感じる時って、何?

人それぞれでしょう。身も蓋もないけれど。今日あった出来事でいえばゲームセンターで待ち椅子で駄弁ってる集団がいて並んでいるのか並んでいないのかわからないような人がいたことです。細かいことから大きいものまでその"嫌と感じる閾値"も違いますしその方向性も出来事もまちまちだと思います。そんな話したところで何になるのかなんて言われてしまえばそれまでなのですが、できれば嫌なことなんてない方がことはスムーズに進むし不快な思いをせずにすむでしょう。当たり前ですが。ただ1億2000万の人が住むこの国、もっと言えば80億の人間が暮らすこの世の中で人がそれぞれの価値観を持ちうる中人で嫌な思いをしないなんてことは不可能だし夢のまた夢なのです。 じゃあ嫌という感覚はどこから来るの?と考えた時また難しくなってきます。嫌という感覚は不快の部類に入ります。多分。痛いとか苦しいとかの身体的な不快も嫌なことには入りますが感情としての"嫌"はなんなのか。多分"嫌"というのは自分の道徳観や価値観に逆らう出来事、または道徳観や価値観に逆らう出来事が予測できる場合に対して感じるものだと僕は考えています。上記のゲーセンの例だと①ゲーセンにある待ち椅子というもので並び順が管理されているものという考え②並び順が曖昧だった時にトラブルになる可能性がある(過去実際にあった)という考え③周囲の状況に配慮して行動すべきという考え④ゲーセンという人種のるつぼのような場所に来ている人間がまともな価値観を持っておらず並び順云々の話をしたところでまともな回答をしてこない可能性があるという考えの4つの僕の考えから産まれた感情が"嫌"だと思います。 あくまで僕の場合はそうだというだけで過度に一般化する気は毛頭ありませんが、嫌だと思うことには大抵原因がある(たまに言う人がいる『生理的に嫌だ』というイレギュラーは除いて)と思います。その原因を突き詰めたら多分何かしらの自分の価値観や道徳観に逆らうものだったりするのではないでしょうか。

人と人の関わりは衝突である

もし仮に自分が暮らす世界がだだっ広く誰もいない空間であるなら"嫌"と思うことはおそらくないと思います。僕は。1人は嫌だと思うことがあったとしてもそれは"嫌"ではなく"寂しい"という感情だと思うので。しかし僕らが暮らす世界は人が大勢います。僕らだって親が昔存在したから今この世で生きているわけです。人との関わりは避けては通れません。また人と人とで違う考え方をしているという前提がある以上、人と関わると価値観の差が生まれその差が僅かなものであったとしてもそこには衝突が生まれるのです。無理なんです。嫌な思いをしないなんて理想を叶えるのは。その衝突を皆さんがどうしているのかは僕は知りません。しかし衝突があるということだけは確実に分かります。その衝突は時に刺激となりその人の考えに影響を与えることになるかもしれませんが、大抵の場合その衝突は"嫌"という感情に昇華されることでしょう。 では人々はその感情をいちいち行動として発露させているのでしょうか。そんなことになったら年中各国各都市で内戦状態です。きっと人それぞれのやり方でその感情を抑えるか発散させるか、あるいはなにかの方法で飲み込むかなどしてると思います。愚痴なんか分かりやすい方法です。嫌なことがあってそれについてどう思うから嫌なのかを対象を問わず話す訳ですから愚痴というのは非常にいい発散方法であり、思考の整理方法だとも思います。自分の愚痴が文面になってる時それを読み返すと自分がどんなことをされると嫌なのかがよく分かります。意外といいですよ。

僕は嫌なことがあった時感情を抑えて愚痴にもしないことが多いです。嫌なことというのも多分本気で嫌なことになればなるほどそうする傾向があると思います。バイトで変な客がいたとか何か行き詰まったことがあるとかそのレベルだったらむしろめちゃくちゃ愚痴にしてると思います。僕は。でも、本気で嫌なことは多分愚痴にもしないことが多いです。なんでなのかを考えたら多分怖いんだと思います。本気で嫌なことってなると多分僕の価値観や心の核心に近いところにその衝突が産まれている出来事になるわけで、当然その価値観や心を話さないことには愚痴としての解決方法は成立しないのです。冒頭でも少し言いましたが自分の内面の核心に近いことを話すのって怖くないですか?僕は怖いです。なぜなら否定される可能性があるからです。ここまで考えて愚痴を言わないことにしてるのかと言われるとそうでもありませんが、多分内面ではこんなことを思いつつ嫌と言う感情の火に水をかけて消しているのかなと思っています。

「人にやられて嫌なことは人にするな」は通用しなくなった

幼少期とかに「人にやられて嫌なことは人にするな」と教えられ育った人は少なくないと思います。僕は多分そうでした。親に言われたのか誰に言われたのかは定かではありませんが多分準座右の銘レベルには心に刻まれていた言葉だと思います。割と理にかなっていていろいろな事象に当てはめることが出来る便利な言葉だな、とも思っていましたし。自分がやられて嫌なことというのはしっかり掘り下げてみれば色々あります。それを相手にしないことで軋轢が生まれないのであれば、と昔は行動していました。 時に狭く時に広いインターネットという物が文字通り手元に現れ大量の人間が発言をするSNSに浸かり始めてからあることに気づきます。そう、自分が嫌でなければ何をしてもいいという信条をもとに行動している人の多さに。年齢が上がるとともに多少は人の気持ちを想像して行動するようになるなんて考えは甘えでした。人は容赦なく"嫌"の境界線を踏み越えて来ますし、軋轢が生じることなんて恐れていません。一言で言えば自分さえ良ければいいのです。

インターネットで大炎上し個人情報がオモチャにされた長谷川亮太という人物が残した強がりのような冗談のような発言があります。

俺は嫌な思いしてないから それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ だって全員どうでもいい人間だし 大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん それはリアルでの繋がりがないから つまりお前らに対しての情などない

この発言、発言者の意図はどうせしょうもない煽り目的なのでしょうが非常に大衆の考えを表してると思います。後半はさておき、「お前らが嫌な思いをしようが俺の知ったことではないわ」という言葉、だいぶ的を得ていると思います。変な話、人がどう思うかなんてのはこちらがいくら想像をしても正解はありませんし、そのぶんこちらも息苦しくなります。はなから人の気持ちを想像せず好き勝手し、人との軋轢が生まれようとこちらが嫌な思いをせず楽に生きれるならそらはとてもイージーな話です。人は楽な方に行くのが当然なのでこういう考えに至る人が多くなるのも納得がいくように思えます。人にやられて嫌なことは人にしないなんて理論は人の気持ちを想像する面倒さ、こちらが折れる手間を考えた時に非常に骨の折れる話なのです。俺嫌理論と比較した時にどちらが楽かは一目瞭然でしょう。

じゃあ僕がその考え方になったのか、と聞かれるとそうはなりません。いいえ、僕にはその考え方が出来ませんでした。 俺嫌理論(長谷川亮太の考え)は楽です。人の気持ちを想像しない分には。ですが僕はどうしても人の気持ちを過剰なまでに考えてしまうので日々厄介な悩み事をするタイプの人間です。こういう所が面倒くさいと言われるゆえんです。好き勝手やる応酬が怖いのかも知れません。人の視線が怖いのかもしれません。どれにせよ多分僕は人の気持ちを考えないことは無理です。 多分この性格は一生損をし続ける性格でしょう。誰も人の事なんて考えてないのに僕だけ人のことを考え折れ続けるのでしょうから。思えば山ほどあります。僕だけが折れ我慢をし何かをしたり何かをしなかったりと強いられたことは。周囲が人のことを考えていない以上人のことを考えて損をするのは自分です。考え事をしない性格ならこんなことにはならなかったのでしょうが。

対処

嫌なことがあるたびこのように文章に起こしていれば気は紛れるでしょう。しかし僕はそうはしたくはありません。致命的に嫌なことがあってすぐに文として書くのもまた一興でしょうが1度飲み込んで反芻してわかることも多いでしょう。こういうことが嫌なのだからこういうことを回避するように行動しようとか。 何よりも僕はスルーすることを重んじています。スルーとひとくちに言っても無視するとかそういうのではありません。直接的であれ間接的であれ嫌なことをしてくる人に火に油を注ぐようなことをするのが1番良くないと思っています。僕を嫌がらせようと思ってやってるのなら尚更ですがそんな手間のかかることをする人が多いとは思っていません。ふと嫌なことがあったとしても1度飲み込んでスルーするのが重要だと思っています。飲み込むというかそういう人に「あなたのこういう言動は人を不快にさせる可能性があるからやめた方がいい」なんてセリフを僕が言ったとしても聞いてもらえる訳がありませんから。諦めが肝心です。そういう言動を相手がする方向から遠ざける努力だけは出来ると思います。そうやって生きて疲れた時は1人で温泉にでも行くといいと思います。僕は風呂が好きなので時々1人で銭湯に行くことにしてます。裸の人間は無駄に干渉なんてしてきません。湯上りにフルーツ牛乳と共にタバコでも吸ってればいつの間にか嫌なことは湯けむりとともに消えているでしょう。雑なように見えますが僕の嫌なことに対する考えはこんな感じです。